日本歴史地名大系 「尾崎村」の解説
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おさきむら
- 兵庫県:赤穂市
- 尾崎村
慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田高九一石余・畑高五四七石余、塩浜あり。元禄郷帳では高七〇〇石余。宝永三年(一七〇六)の指出帳によれば高七二二石余、畝数六四町・塩浜四五町、竈屋一〇八、塩浜圦樋一〇八。船持三七・船数五四、高札場一、酒株二。家数四七六・人数三千三五一。牛二八。庄屋二・年寄二、医者本道四・外科一・針立一・目医者二・馬医一、鍛冶三・紺屋三・桶屋三・大工七。
尾崎村
おざきむら
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おさきむら
暦応二年(一三三九)一一月一日の曾我貞光申状写(遠野南部文書)に「同十月尾崎合戦之時 分取五人仕候了」とあり、南北朝期に戦闘が行われている。しかし当時の城主などは不明。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「尾崎近代牛心ト書長崎トモ書」とある。天正二年(一五七四)八月大浦(津軽)為信の第一次
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おさきむら
- 長野県:飯山市
- 尾崎村
永正六年(一五〇九)八月一一日付の国分胤重軍勢催促状案(金沢系図略伝)に「尾崎之庄」があり初見。これによれば関東管領上杉顕定は弟房能の仇を報いるため上州より越後に打ち入り、長尾為景方に味方した信州衆市川(市河)・小笠原・泉・高梨と戦った。この戦いで信州衆は関東衆に打ち散らされ、「泉殿領内尾崎之庄」へ逃れたが、更に顕定に攻め込まれ、高梨方も市川方も泉方も居館へ退散、閉居したとある。天文一七年(一五四八)下諏訪秋宮造宮帳に秋宮一之大鳥居造宮料として「合米壱石壱斗 尾崎郷・北方郷 取手小口民部丞」とある。
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おざきむら
- 佐賀県:鹿島市
- 尾崎村
正保絵図に村名がみえる。貞享四年(一六八七)改・元文三年(一七三八)写の御領中郷村帳(佐賀県立図書館蔵)には「尾崎村、又云高津原」とあり、享和元年(一八〇一)写の御領中郡村附、万延元年(一八六〇)改の郷村帳には、尾崎村は
「鹿島志」に「高津原は
尾崎村
おざきむら
- 福井県:小浜市
- 尾崎村
江戸時代の初めは京極忠高の代官組屋六郎左衛門(宗円)の支配で、慶長一五年(一六一〇)四月四日付京極忠高黒印状(組屋家文書)に「高五百弐拾弐石九斗九升五合者 遠敷郡尾崎村」とある。
尾崎村
おさきむら
尾崎新田の南西、信濃川右岸に位置し、南は
尾崎村
おざきむら
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おざきむら
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おざきむら
- 高知県:室戸市
- 尾崎村
元禄郷帳による本田高は一一七・六三三石で、安政四年(一八五七)の佐喜浜郷浦御改正廉書指出写(松野氏所蔵文書)では九三石余の新田を開き加える一方で、六三石余の荒をかかえている。
尾崎村
おさきむら
- 新潟県:十日町市
- 尾崎村
信濃川の支流
尾崎村
おざきむら
尾崎村
おさきむら
古町村の東に接し、
慶長九年(一六〇四)の検地帳(享保八年写、東粟倉村史)によれば田三六町余・四六〇石余、畑七町余・九〇石余(史料のママ)で、当有米は五三四石余。田のうち上田一四町一反余の石盛は一石八斗、中田五町八反余は石盛一石六斗、下田七町余は石盛一石四斗。正保郷帳では田三八〇石・畑六四石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高一〇八石余・開高九石余、村位は上。
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おざきむら
尾崎村
おざきむら
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おさきむら
- 兵庫県:龍野市
- 尾崎村
尾崎村
おさきむら
- 愛媛県:伊予市
- 尾崎村
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の伊予郡の項に「尾崎村 日損所」、高二一三石一斗二升と記す。この平野はどの村も干害を受けやすい。承応三年(一六五四)の用高(大洲藩の検地による村高)は二五九石五斗九升である。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」に村の産物は「米・木綿」とあり、天保二年(一八三一)の家数五二軒、人口一八八人(宮内家文書)である。
尾崎村
おさきむら
尾崎村
おざきむら
- 兵庫県:加西市
- 尾崎村
尾崎村
おざきむら
尾崎村
おさきむら
- 愛知県:江南市
- 尾崎村
尾崎村
おざきむら
- 富山県:氷見市
- 尾崎村
現島尾の南西にある尾崎山の近くにあった村と伝えるが、「三州地理志稿」や三箇国高物成帳に村名は記録されておらず、戸数・村高等は不明。正保郷帳では
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報