畑屋村(読み)はたやむら

日本歴史地名大系 「畑屋村」の解説

畑屋村
はたやむら

[現在地名]千畑村畑屋

真昼まひる岳から流れる丸子まるこ川のつくる扇状地上にある。「月の出羽路」に「六郷よりは十六町斗り北に在り」とある。北は安城寺あんじようじ村、西は羽貫谷地はぬきやち村に接する。

文禄三年(一五九四)の中郡領知上り高(六郷の歴史)に「畑谷むら 外館、元宮、室町、多賀神、紫島」とあり一七三石と記され、そのほかに酒役・紙漉・紫草・染物が記され、六郷氏の一統神尾町氏の支配下にあった。支郷の狐塚きつねづか村も天正一八年(一五九〇)の「仙北御在城の節御支配、仙北領村付帳の写」(色部文書)のうち手洗之郷村数に「きつねつか村」と記される。永和四年(一三七八)の板碑が残る。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に九六九石とあり、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には家数二九軒、支郷に神尾町かみおまち村三軒、戸館とだて村八軒、稲荷いなり村一軒、狐塚村一軒、大田口村二軒、羽黒伝村二軒、深田ふかだ村一軒、紫島村一軒とある。


畑屋村
はたやむら

[現在地名]勝央町畑屋

たき川を挟んで勝間田かつまだ村の南に位置する。慶長九年(一六〇四)検地帳(小山文書)によれば名請人五二のうち屋敷持一三(本百姓か)で、屋敷持名請人のうち所持石高一〇〇―六〇石の者一、六〇―四〇石は三、四〇―二〇石は四、一石未満三などであった。無屋敷では四〇―二〇石が二、三石未満が三二。正保郷帳では田三五一石・畑三九石余。なお「勝田郡誌」の記す文禄検地高四七五石余(四七町五反余)


畑屋村
はたやむら

[現在地名]大淀町大字畑屋

芦原あしはら村の東に位置する。「大和志」には「畑谷はたや一作幡矢属邑一」と記されている。きた郷のうち。慶長郷帳では村高九九・四六二石、幕府領(代官中坊左近)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、同藩の二割半無地高増政策で村高は一二四・三二八石に増えた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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