畔蒜庄(読み)あびるのしよう

日本歴史地名大系 「畔蒜庄」の解説

畔蒜庄
あびるのしよう

古代の畔蒜郡がほぼ全域にわたり庄園化した、いわゆる郡名庄。本家は内蔵寮、領家(本所)は紀伊熊野山。地頭は上総介広常、のち熊野山別当。広常ののち実際に下地を支配した足利氏と和田氏の関係から、北部は畔蒜北庄、南部は畔蒜南庄ともよばれた。南庄には亀山かめやま(現君津市)永吉ながよし(現袖ケ浦市)・鹿田村(現袖ケ浦市永吉のうち糠田か)いずみ(現袖ケ浦市)が、北庄には「野□」(現袖ケ浦市野里か)横田よこた(現袖ケ浦市)上郡葛原刀かみごおりくずはらと(現君津市)真里谷まりやつ(現木更津市)があり、また庄内の寺院として大窪寺沼田ぬだ(現君津市怒田か)があり、現袖ケ浦市・君津市・木更津市の一部を含む、小櫃おびつ川の上・中流域一帯に比定される。

「吾妻鏡」文治二年(一一八六)六月一一日条に「畔蒜庄」とみえ、熊野別当(範智)が知行しており、加えて地頭職が源頼朝から熊野別当に与えられた。寿永二年(一一八三)に誅殺された上総介広常の地頭職が没収され、範智に与えられたと思われる。同日条によれば、地下は上総介(足利義兼)和田義盛が自らのものとしており、二人は本所(熊野別当)使者の命令に背き年貢などを納入しなかったため、使者は幕府に訴え、頼朝は使者の命令に従って年貢などを納入するよう両名に命じている。寛元元年(一二四三)七月二八日、熊野山領畔蒜南庄・同北庄領主職などが鶴熊から子の藤原(山内首藤)清俊に譲与され、即日安堵されている(「将軍家政所下文」毛利文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報