創建については諸説あり、寺伝によると舒明天皇元年に高句麗の僧慧灌によって建立されたという。白雉五年(六五四)一〇月に蘇我日向臣が天皇の病気平癒を祈って創建したとする説(「上宮聖徳法王帝説」裏書)もある。近世の「和州寺社記」は聖武天皇が紺紙金泥の宸筆大般若経を十三重石塔基部に納めて建立したとする。鎌倉期の宗性筆記の春華秋月抄(東大寺蔵)は、東大寺別院として行基が開基して聖武天皇本願の由を伝える。天平勝宝八年(七五六)の東大寺山堺四至図(正倉院蔵)に般若寺と思われる寺が記載され、古図は虫食いで不明ながら般若寺と読めるという。境内各所から奈良・平安時代前期の古瓦を出土するが、天平一四年(七四二)一〇月三日の金光明光写経所牒(正倉院文書)をはじめ、八―九世紀の古文書に般若寺が散見するが、異論もあって当寺とは決めがたい。「三代実録」貞観五年(八六三)九月二六日条に「添上郡般若寺近側山十町之内」とあり、当寺の存在が確認できる。
空海が当地で般若心経一千巻を書写し、文殊呪五洛叉を誦したという。寛平七年(八九五)頃、聖宝の弟子観賢が般若寺を中興したとも(「般若寺文殊縁起文字」寺蔵)、彼が般若寺を創建したとも伝える(元亨釈書)。「今昔物語集」巻一一には「般若寺ノ観賢僧正ト云フ人、権ノ長者ニテ有ケル時、大師ニハ曾孫弟子ニゾ当ケル」、巻一九には「今ハ昔、般若寺ト云フ寺ニ覚縁律師ト云フ人住ケリ。
鎌倉中期に西大寺流の律の寺となり、弘安六年(一二八三)五月吉日の釈迦堂縁起之事(法泉寺文書)に「常陸国信太庄宍塚村竜王山般若寺釈迦堂建立仕候事、(中略)般若寺七堂加修理」とみえ、大規模な伽藍があった。釈迦堂は木造釈迦如来立像(県指定文化財)を本尊とし、江戸時代に宍塚出身の三島検校が江戸
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良市にある真言律宗の寺。山号は法性山。寺の北は奈良坂,南はかつて般若坂で,奈良山の名で知られる佐保丘陵の東方に位置し,寺の西面を通る京街道に面して楼門(国宝)が建っている。般若寺を称する寺は往古より多く,創建に関しても異説が多い。境内から奈良時代の古瓦が出土するので,奈良後期になんらかの寺院があったらしい。863年(貞観5)9月,添上郡般若寺付近の山林の伐採を禁止した《三代実録》の記事が当寺の初見である。鎌倉時代に東大寺僧良恵が十三重石塔(重要文化財)の造立を計画,1253年(建長5)ころ完成した。その後西大寺の叡尊により復興され,67年(文永4)に仏殿,僧坊,鐘楼,食堂などが建てられ,西大寺の末寺となった。1269年3月には当寺西南野で非人6000余人に無遮大会(むしやだいえ)を行い,以後室町時代に入ってもしばしば救済事業を行っている。1475年(文明7)に筒井舜覚の陣営となって堂舎が大破し,90年(延徳2)には文殊堂,地蔵堂などを焼失,1567年(永禄10)にも三好・松永の戦闘の場となり再度焼失した。近世の寺領30石。1667年(寛文7)には文殊堂(現,本堂)が再建された。1964年十三重石塔が解体修理され,奈良時代の銅造如来立像や鎌倉時代の水晶五輪塔,金銅五輪塔などが発見された。これら十三重石塔内納置品とともに,寺宝として文殊菩薩騎獅像,銅造薬師如来立像,寺門扁額などがあり,境内には宋人伊行吉の建立した石造笠塔婆2基が立ち,いずれも重要文化財に指定されている。
執筆者:堀池 春峰
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
奈良市般若寺町にある真言(しんごん)律宗の寺。法性山(ほっしょうざん)と号する。本尊は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)。俗に文殊さんともよばれる。625年(推古天皇33)高句麗(こうくり)僧慧灌(えかん)の創建と伝える古刹(こさつ)で、654年(白雉5)蘇我日向臣(そがのひむかのおみ)が孝徳(こうとく)天皇の病気平癒を祈願して伽藍(がらん)を建立、さらに735年(天平7)に聖武(しょうむ)天皇の勅命により行基(ぎょうき)が堂塔を造営、鬼門鎮護の定額(じょうがく)寺に定められた。895年(寛平7)ころ観賢僧正(かんけんそうじょう)が中興、学問寺の名を高めたが、1180年(治承4)源平の兵火によりすべてを焼失した。鎌倉時代に入り石造十三重塔(国重要文化財)が造営され、さらに叡尊(えいぞん)が本堂を再建、1267年(文永4)丈六の文殊菩薩像を本尊として安置した。現本尊の文殊菩薩騎獅(きし)像(国重要文化財)は1324年(正中1)後醍醐(ごだいご)天皇親政を祈願して康俊(こうしゅん)・康成(こうせい)二仏師によりつくられたもの。般若寺と南朝との結び付きは深く、南北朝の争いで大塔宮護良(もりよし)親王が唐櫃(からびつ)に身を隠して難を逃れた話は有名。室町時代に文殊堂、地蔵堂などを焼失、さらに1567年(永禄10)松永弾正(だんじょう)と三好(みよし)3人衆の争いで中心伽藍を失い衰微した。楼門は鎌倉時代の遺構で国宝。そのほか宋(そう)の石工伊行吉(いぎょうきつ)作の笠塔婆(かさとうば)二基、経蔵(きょうぞう)、寺門勅額など国重要文化財指定の寺宝が多い。また1964年(昭和39)の十三重石塔解体修理に際して塔内から出現した納入物は一括して国重要文化財に指定されている。
[大鹿実秋]
『『古寺巡礼 奈良5 般若寺』(1957・淡交社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…このうち前者は平安時代を通じて都と奈良(南都)とを結ぶ最も重要な路線をなしつつ〈奈良坂〉の名で呼ばれた。また後者は俗に〈般若寺(はんにやじ)越え〉とか〈般若道〉とかと呼ばれつつ,平安中期ころからしだいにその重要性を増してき,鎌倉時代に入ると前者に代わって〈奈良坂〉の名で呼ばれるようになった。奈良坂そのものに,そのような歴史的変遷があったので,古代から中世にかけての文学・説話に現れる奈良坂のルートについては注意を要する。…
※「般若寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加