日本歴史地名大系 「百村」の解説 百村もむら 栃木県:黒磯市百村[現在地名]黒磯市百村那須野ヶ原北端部から帝釈(たいしやく)山地にまたがる。範囲は非常に広く,その大部分は標高六〇〇メートル以上で人のまったく住まない山地。山地には大佐飛(おおさび)山(一九〇八・四メートル)・黒滝(くろたき)山(一七五四・一メートル)などがあり,那珂川の上流、その支流の木(き)ノ俣(また)川、大蛇尾(おおさび)川・小蛇尾(こさび)川、熊(くま)川上流の大巻(おおまき)川などが南東へ流れる。集落は標高四八〇―五七〇メートルの台地上にある。南東に入会原野大輪地(おおわじ)原が広がり,北東は油井(ゆい)村,南は木綿畑(きわたはた)村・鴫内(しぎうち)村・湯宮(ゆぐう)村、上中下の塩原(しおばら)村と蟇沼(ひきぬま)村(現那須郡塩原町)、西は横川(よこかわ)村(現塩谷郡藤原町)、北は陸奥国南会津郡に続く。百村は地名でもあり,村名を表す時も単に百村とした。天授六年(一三八〇)四郎兵衛という者により開かれたという。戦国期百村の者は野武士として那須氏のもとで戦ったといわれ,「那須記」には「狩野・百村ノ野伏」などと記される。天正一九年(一五九一)の那須与一郎資景知行目録(那須文書)に「もむら」とあり、「下あな沢」とともで二六九石七斗二升となっており、ほかに「上あな沢」があり、「東」とともで五〇石二斗。穴沢(あなざわ)は百村の一集落で、当時は上下に分れていた。近世は初め那須藩領、寛永二〇年(一六四三)頃から幕府領。慶安郷帳によれば畑方のみで七七七石余。江戸初期に新田集落の百村新田が成立。古くから隣村の鴫内村・木綿畑村・湯宮村との結束が強く、南東巻川温泉(まきがわおんせん)神社の祭礼その他を共同で行い、また黒滝山頂に黒滝権現を祀り盛んに参詣した。 百村もむら 東京都:稲城市百村[現在地名]稲城市百村・向陽台(こうようだい)一―三丁目・東長沼(ひがしながぬま)・長峰(ながみね)一丁目・同三丁目大丸(おおまる)村の南、多摩丘陵の端に位置し、南と西は坂浜(さかはま)村、北と東は長沼村。ほぼ中央を三沢(みさわ)川が東流し、西から東に江戸道が通る。田園簿に百村とみえ、田八一石余・畑二四石余、幕府領。遅くとも延宝五年(一六七七)には旗本坪内領となる(「永代渡シ申山屋敷之事」妙見寺文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by