日本歴史地名大系 「黒磯市」の解説 黒磯市くろいそし 面積:三四三・四〇平方キロ県北部に位置し、東は那須郡那須町、南は大田原市・那須郡西那須野(にしなすの)町・塩原(しおばら)町、西は塩谷郡藤原(ふじはら)町、北は那須町および福島県南会津(みなみあいづ)郡下郷(しもごう)町に接する。那須町内に飛地がある。北西部は標高六〇〇―一九〇〇メートルの山地で、市域の約四五パーセントを占める。この山地を源とする那珂川が北部を、支流の蛇尾(さび)川がほぼ南縁部をいずれも南東へ流れる。山地の約半分は日光国立公園に属し、板室(いたむろ)温泉・三斗小屋(さんどごや)温泉がある。山地以外の大部分は那須野あるいは那須野ヶ原とよばれる那須扇状地の北部にあり、一部を除いて水利に極めて乏しかった。蛇尾川やほぼ並行して流れる熊(くま)川は山地を出るとまもなく伏流し、平時は流水がない。那珂川と熊川の間にはかつて大輪地(おおわじ)原・鍋掛(なべかけ)原とよばれた広大な原野が横たわっていた。天正一九年(一五九一)の那須与一郎資景知行目録(那須文書)に「くろいそ」とある。〔原始―中世〕原始時代の遺跡は少ないが、縄文遺跡が比較的水利に恵まれた東部の寺子(てらご)・越堀(こえぼり)・鍋掛や南部の沼野田和(ぬまのたわ)などで、早期八・前期四・晩期四の遺跡が確認される。このほか土師器や須恵器が寺子・越堀など六ヵ所で確認されている。初めは那須国に属し、持統天皇三年(六八九)頃以後は下野国那須郡に属した。なお平安時代には鍋磯(なべいそ)(のちの鍋掛)にすでに集落が成立していたと伝える。建久四年(一一九三)四月二日、将軍源頼朝の巻狩が那須野ヶ原一帯で催された際(「吾妻鏡」同日条)、将軍の仮御殿の一つが野間(のま)に作られたという(創垂可継)。上厚崎(かみあつさき)からは正慶二年(一三三三)の板碑が発見されている。市域の村の起源は室町時代にさかのぼるとされる。中世はおもに那須氏の支配下にあった。寺子・越堀地区は一時佐竹氏のもとに入ったらしく、寺子の会山(えさん)寺には文亀二年(一五〇二)に佐竹氏から与えられたと記される地蔵尊があり、越堀には佐竹山城守の出城跡があったと伝えられる。鎌倉時代以降、市域の村々はおもに狩野(かの)郷とよばれた。〔近世〕天正一九年、那須資景が豊臣秀吉から与えられた市域の村は、三本木(さんぼんぎ)村・鍋掛村・黒磯村・東小屋(ひがしこや)村・百(も)村など一七村で(前掲知行目録)、那須藩領を経て江戸初期に幕府領となった。慶安郷帳には鍋掛村・下中野(しもなかの)村・袋島(ふくろじま)村など大田原藩領・幕府領の八村が記される。そのほか市域に含まれる村として、狩之中江村(畑高六〇五石七斗五升)・狩之上江村(畑高二八八石四斗七升八合)の幕府領二ヵ村がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by