相去村
あいさりむら
[現在地名]北上市相去町・大堤北一―二丁目・大堤東一―三丁目・大堤南一―三丁目・大堤西一―二丁目、胆沢郡金ヶ崎町六原
仙台藩領の胆沢郡に属し、北上川と支流和賀川の合流点南西方にある。西部は広い洪積台地で東部は沖積低地。北方盛岡藩領の和賀郡下鬼柳村と奥州街道で結ばれる。縄文時代早期の三十人町遺跡(金ヶ崎町)、平安時代の相去遺跡などがある。
永徳二年(一三八二)七月一七日の鬼柳氏一揆契約状(鬼柳文書)の署名者に「あいさり 壱岐守清頼」がみえる。明徳二年(一三九一)三月六日の和賀伊賀入道宛の斯波左京大夫(詮持か)宛行状(同文書)に「会佐利郷」とある。同地は和賀氏の所領で、当地にある中世墳墓の葛西壇は、弘安年間(一二七八―八八)の人で和賀義行の次女岡田女子の夫葛西城八郎清基の墓と伝える(北上市史)。正保郷帳によると田八二貫九三一文・畑三七貫六三文、ほかに新田七貫三四一文。「安永風土記」によれば田一二九貫七七七文・畑三八貫七六四文で、蔵入一一二貫九一七文、百姓知行一貫二五〇文、ほかは給所。人頭一一八人、うち沽却禿二。元禄五年(一六九二)の検地時の竿答百姓八九人。なお人頭のうち沽却禿二、家数一三四・人数六八三、馬一九九、舟三。
相去村
あいざれむら
[現在地名]大正町相去
烏手村の北方、相去川の上流域を占め、上山郷上分の一村。相去川の上流は東股谷と蛭食谷からそれぞれ流れ出て合流するが、この合流点に集落の中心がある。「土佐州郡志」は「東限仁井田川口村、西限芳川村、南限烏手村、北限仁井田久原村、東西一里南北一里二十六町、戸凡三十」と記す。
慶長二年(一五九七)の上山郷地検帳に村名はみえないが、喜多川村の項に載る「北川ヒルハシ村」「東また村」が当村域にあたるかと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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