日本歴史地名大系 「相窪村」の解説 相窪村あいのくぼむら 福岡県:甘木市相窪村[現在地名]甘木市相窪屋永(やなが)村の北、佐田(さだ)川の中流から下流にかけての左岸の台地に位置する。下座(げざ)郡に属し、東は三奈木(みなぎ)村、北は佐田川を隔てて柿原(かきばる)村、北東は板屋(いたや)村。古くは阿井窪と書いた(慶長国絵図・正保郷帳など)。福岡藩成立後は同藩領。元和九年(一六二三)に秋月藩領となるが、のちに福岡藩領に復している。慶長石高帳では三奈木村のうちとして阿井窪村とあり、慶長七年(一六〇二)の検地高一八八石余、うち大豆一三八石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高二二一石余・反別二二町七反余、家数三一・社一、人数一四七(田圃志)。寛政期(一七八九―一八〇一)の人数一八二、馬一七・牛四(別本「続風土記附録」)。 相窪村あいくぼむら 石川県:河北郡津幡町相窪村[現在地名]津幡町相窪朝日畑(あさひばた)川の上流右岸に位置。正保郷帳では高一一〇石余、田方二町四反余・畑方四町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一四二石、免五ツ二歩、小物成は山役一一九匁・野役二匁・蝋役一匁・綿役一匁(三箇国高物成帳)。延享元年(一七四四)より一ツ六歩引免。理由として谷間のため用水の取入場所がなく旱損がちであること、洪水ごとに肥土が押流され土不足であることをあげる。享和二年(一八〇二)も困窮至極として三ヵ年二ツ一歩引免(「河北郡引免根帳」林文書)。文化八年(一八一一)の産物は牽売米四〇石ほど・割木二千五〇〇貫目ほど・楮皮二〇束ほど・渋柿四〇俵ほど・蚕繭五貫目ほど(「村々諸産物書上帳」新田文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報