矢嶋楫子(読み)やじま・かじこ

朝日日本歴史人物事典 「矢嶋楫子」の解説

矢嶋楫子

没年:大正14.6.16(1925)
生年:天保4.4.24(1833.6.11)
明治大正期の教育家,社会活動家。肥後(熊本県)の惣庄屋矢嶋忠左衛門と鶴子の6女として生まれ,勝と名付けられた。竹崎茶堂の妻順子,徳富蘇峰・蘆花兄弟の母久子,横井小楠の妻津世子は姉。25歳で林七郎の後妻となり,3子を育て1男2女を生んだが,夫の酒乱のため離婚。明治5(1872)年兄直方を頼り上京,決意して楫子と改名,教員養成所を経て小学校教員となった。この間兄の書生(既婚者)を恋し娘を生んだ。今後を悩むなかで新栄女学校校長マリア・トルーに会い,同校に転じ,12年受洗,桜井女学校の校長代理となる。新栄・桜井両校合併して女子学院が成立(1889)すると,院長に就任。大正3(1914)年までその教育に当たる。一方,万国キリスト教婦人矯風会からの働きかけを受け,明治19年,東京婦人矯風会(のちに全国組織)を結成,35年間会頭を務めた。そこでは一夫一婦制,廃娼,禁酒を掲げ,婦人救済館(慈愛館)の設立,婦人参政権要求などの運動を行った。晩年には国際平和を願って米国,英国での矯風会の国際会議にも出席した。<参考文献>久布白落実編『矢嶋楫子伝』,『日本キリスト教婦人矯風会百年史』,大濱徹也『女子学院の歴史

(中嶌邦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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