幕末維新期の思想家、政治家。熊本藩士。名は時存(ときあり)、小楠は号。藩校時習館に学んで朱子学的教養を身につけ、実学にも関心を寄せた。1839年(天保10)江戸に遊学、佐藤一斎(さとういっさい)、藤田東湖(ふじたとうこ)らと交渉をもったが、過失あり帰藩逼塞(ひっそく)を命ぜられた。ペリー来航時攘夷(じょうい)論を唱えたが、その後世界地理書『海国図志』(ブリッジマン著、魏源編集)を読んで開国通商による富国強兵論を主張するに至った。1858年(安政5)福井藩主松平慶永(まつだいらよしなが)の招聘(しょうへい)を受け藩校明道館で講学、ついで江戸へ行き、政事総裁職となった慶永の補佐にあたり、開国貿易、殖産興業、海軍強化策などを説いた。1862年(文久2)刺客に襲われた際の挙動が士道に背くとして藩から帰国を命ぜられ、知行(ちぎょう)没収、士籍剥奪(はくだつ)の処分を受け蟄居(ちっきょ)。明治政権成立後、徴士、参与、制度局判事となり、岩倉具視(いわくらともみ)の信任を受けたが、病気のためたいした活動はできなかった。しかも洋風化の中心としてキリスト教を広めるとみた旧攘夷(じょうい)派のため暗殺される。彼は外国語に通じなかったがよく西洋文物を理解し、勝海舟(かつかいしゅう)、坂本龍馬(さかもとりょうま)らを敬服させたが、その教養の根底には政治と学問とを連続したものとみなす朱子学の理念が強く流れていたといわれる。
[山口宗之 2016年7月19日]
『山崎正董著『横井小楠』上下(1938・明治書院)』
幕末・維新期の思想家,政治家。諱(いみな)は時存,字は子操,通称平四郎。小楠は号。熊本藩士の次男として熊本に生まれた。藩校時習館に学び,居寮長に進んだのち江戸に遊学したが,酒で失敗して帰国させられた。1843年(天保14)ごろ同志と実践的朱子学のグループを結成して学問と政治の一致を目ざし,〈実学〉を唱えた。また同じころ私塾を開いた。徳富一敬(蘇峰の父)が弟子の第1号であった。54年(安政1)兄の死によって家督を相続したが,実学党の名まえが広く知れわたったにもかかわらず,肥後では不遇な一藩士にとどまった。
58年,福井藩主の賓師として招かれ,福井に出向いた。おりからの安政の大獄で藩主松平慶永(よしなが)は隠居謹慎させられたが,小楠は儒教の民富論,交易論によって藩政を指導し,農民の積極的参加を原動力とする生糸の大量輸出によって巨大な利益を挙げた。この政策の指針となったのが60年(万延1)にできあがった問答体の《国是三論》である。62年(文久2)慶永が隠居のまま幕府の政事総裁職に就任すると,小楠はそのブレーンとして江戸で活躍した。幕府が同年,参勤交代制を事実上廃止し,大名の妻子を人質とすることをやめて帰国させたのは,小楠の建策によるものだった。しかし同年末,友人と酒宴中に刺客に襲われ,逃げたのが士道忘却だと非難されて失脚したため,欧米との条約を根本的に見直して全人類対等の新しい基準を立てようという大経綸は実現できなかった。翌63年には,熊本藩から士籍剝奪の処分を受けて,熊本郊外の沼山津に閑居した。
68年(明治1)新政府によって京都に呼び出され参与に就任したが,老齢と病気のため目覚ましい仕事もできないまま,翌69年正月,尊攘激派生き残りの不平分子集団に暗殺された。欧米追随路線の元凶だとかってに決めつけられたための災厄だった。
執筆者:松浦 玲
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(沼田哲)
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1809.8.13~69.1.5
幕末・維新期の政治家。肥後国熊本藩士の次男。通称平四郎,小楠は号。藩校時習館で学んだのち江戸に遊学。帰国後私塾を開き,熊本実学党を結成して藩政改革を企図するが失敗,1851年(嘉永4)から諸国を遊歴する。58年(安政5)福井藩に招かれ,松平慶永(よしなが)の政治顧問となる。「国是三論」(1860)を著し,開国通商・殖産興業・富国強兵を主張して藩政改革を主導した。62年(文久2)慶永のブレーンとして公武合体運動を推進し,雄藩連合を構想するが,63年失脚し,熊本で閑居。儒学に立脚しつつ,幕末の内政および外交政策をとらえ直し,革新的な思想を唱えて,当時の有識者に大きな思想的影響を与えた。維新後,新政府の徴士・参与となったが,69年(明治2)1月保守派に京都で暗殺された。
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…在野の洋学者たちは国防の危機や国内の社会不安の解決のため洋学こそ有用急務の実学とみなした。佐久間象山は,西洋の自然科学の〈窮理〉(物理を究める)に基づく有用の学を実学となし,横井小楠の実学は,仁と利,すなわち道徳性と功利性とを統合しようとするものであった。また箕作阮甫(みつくりげんぽ),杉田成卿ら洋学系の学者は,実験,実証に基づいた洋学こそ実学であると主張し,明治維新後の実学観へとつながった。…
…首都ワシントン,ワシントン州をはじめ,国父としての彼を記念して名づけられている地名,施設が多い。 日本においては,早くも幕末に横井小楠が〈真実公平の心〉の持主(《沼山対話》1864),西洋列国の有名な人物の中では唯一例外的に〈徳義のある人物〉(甥あての書状,1867)とワシントンを称賛している。明治維新以降,アメリカの独立戦争・建国時ナショナリズムの,また自由の精神の体現者として,ワシントンは国権派からも民権派からも好意的に受けとめられた。…
※「横井小楠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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