明治中期になると、もっぱら②の用法で使われることが多くなる。これには、「附音挿図英和字彙」(一八七三)に「Student 学者、学生(セイ)、書(ショ)生、読書家」と、student の訳語として「書生」とともにあげられている「学生」の語が普及したことに関係していると思われる。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
学問をする者,とくに若者を総称してほぼ明治期まで用いられた言葉。また,他家に住み込んで家事を手伝いつつ学ぶ学生のことをさす場合もある。漢語としての起源は古代中国までさかのぼるが,日本では江戸時代に主として他郷で学ぶ青年たちの称として用いられた。諸国を遊学して儒学を学ぶ漢学書生に対し,幕末には洋学書生も生まれた。明治維新後,遊学の自由化,私塾や専門学校の隆盛とともに,〈書生〉という呼び名が急速に普及した。坪内逍遥が《一読三歎 当世書生気質》を発表したのは1885年から86年にかけてであった。この小説が写実主義を標榜することができたのも,この当時東京,大阪などの大都市に学問を求める青年たちが集中し,一つの社会層を形成するようになったことのあらわれとみられる。逍遥はこの書の冒頭で〈(東京で)数多きは,人力車夫と学生なり。おのおのその数六万とは,七年以前の推測計算方(おしあてかんぢやう)。今はそれにも越えたるべし〉と記している。しかし明治後半になると,書生という言葉は〈書生芝居〉〈書生羽織〉〈書生論〉というようにやや蔑称をこめたいい方として使われるようになる。たとえば,徳冨蘆花の《黒潮》に〈併し僕は書生論を唱ふるよりは些(ちつと)は年がいって居るつもりだ〉とある。そして書生に代わって〈学生〉という語が頻用されるようになった。おそらく,東京大学が本科生の呼称を〈学生〉と定めて予備門生の〈生徒〉と区別した(1881)ことがその素地をつくり,近代高等教育の発達とともに,より明確で制度的な意味をもつものとして,学生が書生にとって代わっていったものとみられる。
執筆者:寺崎 昌男
律令制下の下級書記である史生(ししよう)の補助的な役割を果たした下級職員。職員令(しきいんりよう)にはその規定がないが,748年(天平20)8月起筆の〈経師等上日帳〉(《正倉院文書》)にすでに式部書生の名がみえ,また大宝令制の図書寮写書生とみられる図書寮書生がみえる。そして812年(弘仁3)10月に,人事関係の膨大な文書を筆写する式部省書生の定員を30人とし,省が筆跡を試験して採用した。ついで翌年7月,式部省の定員10人を削って,兵部省に書生10人を創置し,また828年(天長5)に雅楽寮歌人などを割いて,勘解由使(かげゆし)に書生10人を置いた。そして835年(承和2)治部省に書生10人が置かれたが,872年(貞観14)には治部省の書生3人を勘解由使に振り替え,さらに881年(元慶5)に勘解由使の書生2人を史生に切り替えるなど,変遷がみられた。書生は左右京職,大宰府,畿内・地方諸国にも置かれた。
執筆者:野村 忠夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国から伝わったことばで、学業を修める者の意。明治・大正時代には学生の別名として用いられ、政治家や学者などの家に寄食して家事を手伝うかたわら勉学にいそしむ者もあり、明朗率直な書生気質(かたぎ)や大政治家への夢をうたった書生節や新書生節も生まれ、書生独特の長羽織や朴歯(ほおば)の高下駄(たかげた)は一般にも普及した。1885年(明治18)刊行になる坪内逍遙(しょうよう)の小説『当世書生気質』はこの書生風俗を描いたものである。
[佐藤農人]
…中国で一定の師の門に入って学問を修め,名簿に著録された門下生・書生を意味し,漢から六朝期にかけて社会的政治的勢力を形成する。1人の師に仕える門生の数は,数百数千人にのぼる場合があり,彼らは師に対して入門金,謝金を出したが,師からの生活保証はなく,また師の家に居住することもなかった。…
※「書生」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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