矢田川原(読み)やだがわら

日本歴史地名大系 「矢田川原」の解説

矢田川原
やだがわら

[現在地名]桑名市矢田磧やだがわら千代田ちよだ町・相川あいかわ町・三ッ矢橋みつやばし

矢田町の北にあり、東西六条の下級藩士の屋敷地。もとは矢田村の地内で、江戸時代以前はこの付近を町屋まちや川が流れており、矢田河原(磧)と称した。「太閤記」によれば、天正一二年(一五八四)小牧長久手の戦に際し、豊臣秀吉織田信雄が対戦した時、一〇月二〇日に両将がこの矢田河原で会見し、和睦したといわれる。慶長の町割により町屋川の流れが南方へ付替えられたが、「久波奈名所図会」によると「慶安洪水の節までは人家もなき高川原」で、のち「正徳年中総州忠雅公当所御入城の後、御足軽の住宅矢田川原并新地しんちに出来」ている。

当町は南より川端かわばた町・なかノ町・てらノ町・御旗みはた町・ほそ町・矢場やば町と分称していたが、細町は文政八年(一八二五)に矢場町へ合併した。


矢田河原
やだがわら

尾張藩の射撃訓練場。鉄砲塚てつぽうづかともいう。「小治田之真清水」には「名古屋の府士、炮術の師家、大筒・石火矢・地雷火等のわざを試る所也。山田川原より矢田川原まで数十町の沙漠にて、烽火・浪煙等をも試み、軍戦の備へをなすの良地なり」とあり、その期間は四月一日より七月晦日までであった(雑志)

雑志」によれば、山田やまだ(現北区)から矢田村へかけての川原であったようであるが、「徇行記」には「稲富平左衛門鉄炮稽古場アリ。元拝領地ナリ。古来ヨリ放炮ノ地ヲ通称矢田河原トイヘトモ、実ハ大幸村界内ナリ。サレバ夏ノ中、放炮ノ課役ハ多ク大幸村カヽリニナリ来レリ」とあり、大幸だいこう村に「鉄炮蔵」が一軒あった(寛文覚書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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