桑名城下(読み)くわなじようか

日本歴史地名大系 「桑名城下」の解説

桑名城下
くわなじようか

中世末には桑名の土豪による東城・西城・三崎みさき城の城館があり、文禄年間(一五九二―九六)一柳直盛による桑名城の築城があったが、城下町として確立するのは慶長六年(一六〇一)に桑名城主となった本多忠勝が慶長の町割を実施したことに始まる。この町割は都市の大規模な改造であり、これによって現在の桑名市の中心部がほぼ成立した。従来市街地へ流れ込んでいた町屋まちや川を遥か南側にそれて伊勢湾に流れ込むように改造し、北側と東側は揖斐いび川に沿い、西側と南側には外郭堀をめぐらせ、その内側を数条の内堀で区画した。その大工事の始まりの様子を、町民である太田吉清の記録した「慶長自記」(「桑名市史」補篇所収)は次のように記している。

<資料は省略されています>

藩士屋敷地は低湿地を新たに開発、町屋敷地は中世から町並が形成されていた小高い土地をあて、内堀で区画した。寺院は南と北の二ヵ所に集中、南は外郭堀の内側に沿ってしん町・伝馬てんま町・かや町に、北は外郭堀の外側に沿った今一色寺いまいつしきてら町である。職業別の町として、北魚きたうお町・南魚町・あぶら町・ふな町・小網こあみ町・鍛冶かじ町・風呂ふろ町・職人しよくにん町・紺屋こんや町・水主かこ町・女郎屋じよろや町・伝馬町・船馬せんば町・太一丸たいちまる鍋屋なべや町などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報