日本歴史地名大系 「矢矯村」の解説
矢矯村
やはぎむら
矢矯村
やはぎむら
天正一三年(一五八五)の勝屋平六家文書(「閥閲録遺漏」所収)に「矢羽木村」とあり、毛利輝元が一五石足分について相良氏に証判を与えている。
慶長五年(一六〇〇)の検地帳、同一五年の検地帳ともに今富・芦河内・矢矯が合石記載され、一五年の検地帳によれば、総石高一千一三石余、うち田八三町余で石高九二〇石余、畠一一町余で石高四四石余、百姓屋敷一一五、小物成六石余である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報