矢矯村
やはぎむら
[現在地名]鳥取市矢矯
双六原村の南西、毛無山の北麓の湖山川上流、通称長柄川の最上流部にある。上矢矯・中矢矯・下矢矯・庄ヶ谷の支村がある。毛無山の麓を東に越えると河内村へ二五町、村の北部を東に越えると奥細見村へ七町、毛無山北麓を西に越えると気多郡末用村(現鹿野町)に三〇町で、この坂をセンツガ乢とよんだ(因幡志)。拝領高一三六石余。正保国絵図・正保郷帳には「矢萩村」と書違えられ、元禄国絵図・元禄郷帳作成の際に矢矯村と改められた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。
矢矯村
やはぎむら
[現在地名]楠町大字矢矯
有帆川の支流、矢矯川が形成する小河谷の北側に位置する山間の小村。東は芦河内、南は吉見(現宇部市)、南西は東万倉、西は西万倉、北は今富の各村と接する。村の西部を舟木市から秋吉村(現美祢郡秋芳町)を経て萩に至る往還が通る。萩藩領で舟木宰判に属する。
天正一三年(一五八五)の勝屋平六家文書(「閥閲録遺漏」所収)に「矢羽木村」とあり、毛利輝元が一五石足分について相良氏に証判を与えている。
慶長五年(一六〇〇)の検地帳、同一五年の検地帳ともに今富・芦河内・矢矯が合石記載され、一五年の検地帳によれば、総石高一千一三石余、うち田八三町余で石高九二〇石余、畠一一町余で石高四四石余、百姓屋敷一一五、小物成六石余である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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