石原庄(読み)いしはらのしよう

日本歴史地名大系 「石原庄」の解説

石原庄
いしはらのしよう

古代の紀伊郡石原郷(和名抄)郷域に形成された一円的なまとまりをもつ荘園近世の石原村を中心にした一帯にほぼ比定される。「三代実録」貞観一三年(八七一)閏八月二八日条によれば、「百姓葬送、放牧之処」の一所として定められた「十条下石原西外里・十一条下佐比里・十二条上佐比里」の地域が耕地化されつつあったことが知られるが、石原郷内におけるこうした動きが、後の石原庄形成の素地となったものと思われる。

寛弘二年(一〇〇五)七月二九日付散位藤原為賢公験紛失状(保坂潤治氏所蔵文書)は、この三里内における耕地のその後の状況をよく示している。これによれば、主殿寮大蔵省の下級官人であった国有輔・宗岡兼憲の所領となっていた郷内三里のうちの田畑八町余は、一〇世紀半ばに三条中納言藤原朝成に売却され、それを天元四年(九八一)一〇月一〇日に刑部大輔時清が買取り、更に時清の死後、その子の為賢が伝領したことがわかる。その後、長元六年(一〇三三)には、この八町余の田畑をも含む石原郷域三里内の田畑二五町七段余が権大納言家領として立券され(「三月一〇日山城国紀伊郡司解」神田喜一郎氏旧蔵文書。以下同文書については個別文書名のみ記す)、翌年八月には臨寺雑役・諸宮御菜・右馬寮御馬芻などの賦課が停止されている(同月二日山城国紀伊郡司解)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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