石原村(読み)いしはらむら

日本歴史地名大系 「石原村」の解説

石原村
いしはらむら

[現在地名]額田町石原

東は川合かあい村・野郷のごう(現南設楽郡作手村)本宮ほんぐう山から北へ延びる山脈で接し、西は亀穴かめあな村、南は河辺こうべ村・栃原とちはら村・中金なかがね村、北は千万町ぜまんぢよう村と各々山で接する。本宮山を源とするおと川沿いと、支流の室河内むろこうち川沿いに耕地が開け、集落が立地。村域内を東西に作手つくで道が男川沿いに貫く。

天和元年(一六八一)に鳥羽藩領に編入した際に、宮崎みやざき村が、当村と中金村・明見みようけん村・亀穴村の四ヵ村に分村。このときの村高二六四石余。享保一〇年(一七二五)に幕府領に編入。天明五年(一七八五)に分郷し岡崎藩領一五九石余、幕府領一〇六石余となり明治に至る。文久三年(一八六三)の願書(石原区有)によると、村方は従来から石原組九六石余、牧原組四九石余、屋下やげ組六四石余、内久保ないくほ組五三石余の四組に小割していたことがわかる。

宝永四年(一七〇七)の御本帳写名寄帳(石原区有)の高持は四三人で一〇石以上二、三石以下一五となり、実際の作人は一〇二人である。宝永七年の指出帳(石原区有)には、田反別四町二反八畝余・畑屋敷反別一九町四反三畝余の畑地の多い村で、年貢は畑方がちのため吉田よしだ(現豊橋市)相場で金納した。


石原村
いしはらむら

[現在地名]八鹿町石原

小佐おさ村の西、小佐川の上流域に位置し、西は日畑ひばた村。集落は村の東部、小佐川沿いの椿色つばいろと、その南西方、小佐川北岸の山麓斜面に形成された石原の二つがある。石原集落から西へ進み、日畑村妙見みようけん集落を経由して妙見山(一一三九メートル)の北側を越え、七美しつみ日影ひかげ(現村岡町)に至る山道(妙見越)が通じていた。地内の高野山真言宗日光につこう院は中世・近世には妙見社(現名草神社)と一体となって一山組織(近世には帝釈寺を号する)を構成し、但馬における妙見信仰の中核として信仰された。

〔中世〕

鎌倉―戦国時代には小佐郷恒富名(方)に属した。初見は文永五年(一二六八)六月二三日付の権律師某油畠寄進状(日光院文書、以下断りのない限り同文書)で、「重代之本領」という「石原村」にある畠一段を「石原妙見大菩薩御油畠」に寄進している。「石原妙見」「石原日光院」といわれるように、妙見社とこれを祀る日光院があり、日光院伝来文書中に当村の史料が散見する。永和二年(一三七六)二月九日には源左衛門尉祐尚が「小佐郷恒富名石原舞人」を「石原日光御院」に寄進している。石原舞人とは当村にある舞人田の意味であろう。


石原村
いしはらむら

[現在地名]南区吉祥院石原きつしよういんいしはら町・吉祥院石原〈上川原かみかわら町・京道きようみち町・どううしろ町・どう後西町うしろにしまち長田ながた町・西にしくち西にしひらき町・野上のがみ町・橋裏はしうら橋上はしかみみなみ柳本やなもと割畑わりはた

北と東は吉祥院村、南はしま村、西はかつら川に接する。

古代の石原郷(和名抄)に属し、条里区画でいえば下石原西外里(嶋固里)の一部が村域にかかっている。かつてこの地には「三代実録」貞観三年六月七日条に「山城国奏言、河陽離宮、久不行幸、稍致破壊、請為国司行政処、但不旧宮名、行幸之日、将掃除、許之」とみえる。桓武天皇の皇子賀陽親王の離宮が営まれたとされる。「賀陽親王石原家」(三代実録)とも称されたこの離宮跡の場所は定かではない。この地は、一一世紀半ばに石原庄として立券され、この荘園を前身として石原村の成立をみた。


石原村
いしわらむら

[現在地名]久住町有氏ありうじ 石原

久住村の北、久住山(一七八六・八メートル)などの連なる山地と、その南西麓高原に立地し、集落は大石おおいし川とさかい川に挟まれて位置する。正保郷帳に村名がみえ、朽網くたみ郷に属し、田高一三石余・畑高二三石余、水損所と注記され茅山がある。弘化物成帳では有氏組のうち、村位は下、免四ツ九分、田六八石余(七町九反余)・畑三四石余(七町八反余)、屋敷三石余(三反余)で、開田一〇石余(五町二反余)・開畑一〇石余(二〇町六反余)がある。旧高旧領取調帳では高一〇九石余。当村には小庄屋が置かれた(安永七年大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)


石原村
いしばらむら

[現在地名]大郷町石原

郡の東端、吉田川北岸に位置し大谷おおや郷に突出する。西境より二筋の小川が東流し中央部で合流して東南境で糟川かすかわ村に落ちる。流れに沿って細長い耕地がへの字形に東南に展開し、北・西・南が丘陵地、南端は四―五メートルの断崖で吉田川に臨む。道は高城たかぎ(現宮城郡松島町)から大松沢おおまつざわ村、松山まつやま宿(現志田郡松山町)に至る脇街道が糟川村から当村の東寄りを通り床寒とくさぶ山の峠を北に抜けている。北は大松沢村、西・南はさんうち(現大和町)。南部に北・東を水田に南を吉田川に囲まれて、中央に平場のある館跡の一帯は近世の知行主武山氏とその家中の集落。そのほかの集落も水田沿いに散在し、村の大部分は山林である。


石原村
いしはらむら

[現在地名]渋川市石原

唐沢からさわ川扇状地にあり、北は金沢かねさわ川を境に渋川村、東はなか村。中央を三国街道が通る。観応二年(一三五一)造立の宝篋印塔、延文元年(一三五六)一一月二七日の年紀をもつ石造笠卒塔婆(国指定重要文化財)や多数の五輪塔が点在する。「太平記」巻一三(中前代蜂起事)にみえる渋河氏家臣の石原氏は当地を本領としたと推定される。永禄一〇年(一五六七)五月一日には「渋河之内石原之郷」一五〇貫文が浦野民部右(左か)衛門尉に与えられた(武田家朱印状写「新編会津風土記」所収)。また同一二年八月五日には「石原之内高源寺」の二三貫文が同人に与えられている(「武田信玄判物写」同書所収)。寛永八年(一六三一)当村を含む安中藩領五村の検地があり、金井かない南牧なんもく両村の年貢割付状が五村の支配をゆだねられた当地の大島家に残る。


石原村
いしはらむら

[現在地名]広瀬町石原

広瀬村の北、伯太はくた(富田川)左岸に位置し、北は植田うえだ村・神庭かんば(現安来市)。地内のかつ(滝山)に勝山城跡があり、同城は尼子十砦の一つに数えられる。また亀井かめいなりの丘陵にも城跡があり、尼子家の重臣亀井能登守安綱や同秀綱らの城館があったと伝える。丘陵の幾段かの平坦地から土台石や土器などが出土している。江戸時代にこの城跡は崩され誓願せいがん寺・本成ほんせい寺が建立された。「中国治乱記」に永禄年間(一五五八―七〇)毛利元就が富田とだ城を攻めた時のこととして「経良木山ニ陣ヲ居、富田城ヘ向城ヲ石原山ニツケ番衆ヲスヘヲカレ」とある。正保国絵図に村名がみえる。「郡村誌」によると田三九町一反余・畑五町八反余・宅地三町余・山林二六七町七反余、戸数六三・人数三一五、牛一九、小車六。


石原村
いしはらむら

[現在地名]日南町神戸上かどのかみ

西流する石見いわみ川の最上流部、大倉おおくら(一一一二メートル)東麓と花見はなみ(一一八八メートル)南西麓との狭間の台地に位置する。村内を玉島たましま街道が川沿いに走り、南西は山根やまね村、東は神戸上村。拝領高は二二四石余、本免は四ツ五分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四一五石余、竈数四三。「伯耆志」では林三〇町七反余、家数四二・人数二一七、鑪山として桑平くわひら山・佐貫さぬき谷・砂田すなだ山があった。藪役六匁三分が課されていた(日野郡史)


石原村
いしはらむら

[現在地名]高崎市石原町・聖石町ひじりいしまち片岡町かたおかまち一―三丁目・八千代町やちよまち一―三丁目

東南流するからす川の右岸、川と並行するように延びる低丘陵の麓にある。片岡郡に属し、北から西は同郡乗附のつつけ村、東は烏川を挟んで高崎城下・群馬郡下和田しもわだ村。烏川には聖石河原渡があった(→聖石河原渡。建長元年(一二四九)一〇月三〇日付三善康尚宛の将軍藤原頼嗣下文写(万代亀四郎氏所蔵手鑑)に「上野国(中略)勾田村石原郷内在家一宇在屋敷付田捌段者事」とみえる。同所ほかは安達義景の知行であったが、康尚の所有していた河内観心かんしん(現河内長野市)地頭職と相博することになった。


石原村
いさむら

[現在地名]福知山市字石原・東平野ひがしひらの町・南平野町・北平野町・西平野町

福知山盆地の中央部、西流する由良川の左岸にあり、東はおき村、西はつち村、北は戸田とだ村、南は長田おさだ村。南は長田野の東縁部とたか岳の山稜が西北へ延びて尽きる所であり、長田野や高岳の一部の浸食搬出物が河川によって運搬されて形成された扇状地である。砂や石が多く堆積しており、石原の名は地勢から起こったものか。また中世には「いしわら」と称していた。

古代には雀部ささいべ(和名抄)、中世には松尾まつお社領雀部庄の地で、乾元二年(一三〇三)四月三〇日付けんによ譲状(松尾大社文書)に「さゝいへのしやうのうちいしわら(石原)ハ、せうしやう一(期)ののちにハ、そうしやう(惣庄)につくへき物なり」とあるのが地名の初見。


石原村
いしはらむら

[現在地名]熊谷市石原・本石ほんごく

大里郡おし領に所属(風土記稿)。熊谷宿の北西に位置し、南は荒川を境に万吉まげち村。中山道が村内を貫通し、北西には一里塚(現在は跡地)がある。熊谷宿の宿並が続き、秩父往還の分岐点には江戸時代秩父巡礼が盛んであった頃に建立された道標三基が残る。明和三年(一七六六)の年紀をもつ秩父道志るべ(県指定旧跡)には「ちゝぶ道しまふへ十一里 明和三年丙戌正月辰 説法一万余坐 快明誌 石原村」とあり、快明は平戸ひらと村源宗寺の僧。弘化四年(一八四七)・安政五年(一八五八)銘をもつ二基には、当村の秋山四郎兵衛や榛沢はんざわ血洗島ちあらいじま(現深谷市)の蚕業先駆者渋沢宗助の名がみえる。


石原村
いさらむら

[現在地名]糸満市伊原いはら

米須くみし村の西に位置し、南は海に面する。「おもろさうし」巻二〇の二に「いしやらたうくすく(石原平グスク)/ゆかるたうくすく(良き平グスク)/かみてたの まふりゆわるくすく(神とテダが守りたもうグスク)/又 いしやらよのぬしの(石原世の主が)/けらへたる御くすく(造営したお城)/又 いくさ よせるまし(軍勢を寄せるまい)/かたき よせるまし(敵が寄せるまい)」とある。

絵図郷村帳に摩文仁まぶい間切石原村、琉球国高究帳に同「いしわら村」とみえる。高究帳によると頭高一四〇石余、うち田五九石余・畠八一石余。間切集成図には摩文仁間切番所から喜屋武ちやん間切番所への宿道に沿って伊礼いりー村と並んで集落が描かれ、両村の間に井が記される。


石原村
いしはらむら

[現在地名]浜松市豊町ゆたかちよう恒武町つねたけちよう豊西町とよにしちよう常光町じようこうちよう

羽鳥はとり村の北、豊田川右岸に位置。豊田郡に属する。松平忠頼領郷村帳では高一八三石余、田四町八反余・畑一九町七反余、ほか正光しようこう寺領二石。元和五年(一六一九)には幕府領(池田川西代官所高帳)。正保郷帳では幕府領。国立史料館本元禄郷帳・享保郷村高帳では旗本北条領、旧高旧領取調帳では旗本松平領。なお旧高旧領取調帳に石原村新田がみえ、高二七石余で幕府領であった。同新田は江戸後期に開発された新田で、明治七年(一八七四)の遠江国各区并村名帳にも記載されるが、同一九年までに石原村に合併されたものとみられる。


石原村
いしわらむら

[現在地名]堺市石原いしはら町一―四丁・八下やしも町一―二丁

菩提ぼだい村の北に位置し、東は小寺こでら(現南河内郡美原町)と接する。かつて八下村と称し小寺村と一村を形成していたという(大阪府全志)。村域は小寺村との錯雑地が多い。河内国八上やかみ郡に属する。平城宮造営の使役に出た人々のなかに路傍で餓死する者が多く出たが、その人々を救済するために行基が宿泊施設を造営した。その施設は「布施屋」と称され、山城・摂津・河内・和泉で九ヵ所に造営された。


石原村
いしはらむら

[現在地名]土佐町東石原ひがしいしはら西石原にしいしはら

地蔵寺じぞうじ川最上流域、じんもり東方の山間に位置する。「土佐州郡志」に「東西一里南北二里、村中有山人民東西夾家焉、戸凡五十八、其土黒」とみえ、小村としてみね安吉やすよし坪淵つぼぶち柿木かきのき石根いしねの五村を記す。もり郷の一。天正一五年(一五八七)の森村地検帳に「石原名」とみえ、検地面積一六町九反余、うち田分九町一反余・畠分二町一反余・屋敷分五町六反余。屋敷六二、うち居屋敷三四。土豪森氏の一括所領ではあるが、その下に森三四郎なる者が土居を構えて石原名を直接支配する。同年の森村高山切畑地検帳によると切畑検地面積六町四反余で、麦・蕎麦・稗・豆・芋・小豆を作っている。

元禄地払帳では総地高四四七石余、うち本田高一六九石余・新田高二七八石余。


石原村
いしはらむら

[現在地名]糸貫町石原

三橋みつはし村の東、仏生寺ぶつしようじ村の北に位置し、標高二〇―二五メートルの緩傾扇状地平野に立地。慶長郷帳に村名がみえ、奥平忠政領高六三〇石余と、平岡頼勝領高四一石。加納藩家中知行渡方帳(森文書)によれば、慶長一七年(一六一二)から数年間は重臣服部伝右衛門の給地。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では奥平忠隆(加納藩)領と平岡頼資(徳野藩)領。


石原村
いしはらむら

[現在地名]勝山町月田つきだ

月田川東岸の河岸段丘上にある。東城とうじよう往来に沿い、川を隔てて西は三堂坂みどうさか村・北は下田しもだ村、南は宮原みやはら村、東は山を隔てて杉山すぎやま(現落合町)。中世後期、広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)御師の檀那場で、文明一四年(一四八二)八月一〇日の檀那村書(肥塚家文書)に「石原村一ゑんなり」、天文八年(一五三九)一二月吉日の檀那引付(同文書)に「たかた内」として「いしわら」などとみえる。「作陽誌」によれば月田七ヵ村の一。正保郷帳に村名がみえ、田高二三石余・畑高四〇石余。


石原村
いしはらむら

[現在地名]日野町石原

野出ので村の南西にあり、近世には御代参ごだいさん街道の継立宿として発達。小字九之坪くのつぼは古代条里の遺称とされる。古代・中世は必佐ひつさ郷に所属し、隣村の小谷こだに村・増田ましだ村と合せて三郷と称された。現安土町浄厳じようごん院の過去帳の天正六年(一五七八)記に「日野石原」とみえる。文禄二年(一五九三)一二月八日、豊臣秀吉は当村のうち高二〇〇石を松浦佐吉に、同じく二〇〇石を稲葉彦一に、高一〇〇石を久世平蔵にそれぞれ与えている(駒井日記「蒲生郡志」所収)。寛永九年(一六三二)前出羽山形藩主最上義俊領となる。


石原村
いしはらむら

[現在地名]岐阜市石原

福富ふくとみ村の北東に位置する。文禄三年(一五九四)の下河原越後守書状(神護寺文書)に山県郡石原とあり、勧学かんがく(現安八郡神戸町)の寺領であったとみられる。初め加藤貞泰(黒野藩)領であったが、慶長一五年(一六一〇)奥平忠隆(加納藩)領となる。同藩の知行渡方帳(森文書)によれば家臣一名の給地であった。慶長郷帳に村名がみえ、高五八〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳でも奥平領だが、寛永九年(一六三二)同氏の断絶に伴い幕府領となる。正保郷帳では幕府領で、田四八二石余・畑九四石余、紙桑木高・山年貢合せて三石余。元禄郷帳でも幕府領で、高六七六石余。宝永二年(一七〇五)村高のうち高四五石余が高富藩領となり(「高富藩領高辻帳」丹羽文書)、以後幕府領との相給で推移する。


石原村
いしはらむら

[現在地名]黒田庄町石原

黒田くろだ村の西、加古川中流域西岸に位置する。北・西・南が山地、東に平地が広がる。西の山を越えて東安田ひがしやすだ(現中町)に通じる。慶長国絵図に村名が記載される。慶長検地の高六二六石余(延宝五年「検地帳」石原区有文書)。正保郷帳では田方五三三石余・畑方一二八石余、山役・川役・鉄砲役があり、幕府領。貞享三年(一六八六)相模小田原藩領(「大久保氏禄高調」「稲葉家引継書」小田原市立図書館蔵)、延享三年(一七四六)三卿の一橋領となり幕末に至る(「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書、旧高旧領取調帳)。元禄郷帳では高六九四石余。天保郷帳では高七一二石余。天保四年(一八三三)の加古川筋一揆では九郎左衛門ほか三名宅が襲われた(「播州村々百姓騒立手続写」谷川家文書)


石原村
いしはらむら

[現在地名]浅羽町豊住とよずみ

平民へいみ村の南に位置する。寛永二一年(一六四四)の掛川預一万石郷村覚に村名がみえ、高六〇石余。同年幕府領掛川藩預地、正保二年(一六四五)横須賀藩領となる。正保郷帳では同藩領、田方五一石余・畑方九石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。正徳三年(一七一三)赤坂代官万年頼忠が改易となって旗本皆川領となり、以降の領主の変遷はしば村の皆川領分と同じ。「遠淡海地志」では家数五。


石原村
いしはらむら

[現在地名]小倉南区石原町

新道寺しんどうじ村の西、むらさき川支流の東谷ひがしたに川の流域に立地する。秋月街道が通る。石原町いしはらまち村とも(小倉領寺院聚録)。日帳(永青文庫)の寛永五年(一六二八)正月二九日条に「石原」とある。郷村高帳では高一九二石余、うち新田高二〇石余。幕末の各村覚書では本高一七二石余、田一三町余・畠七町七反余、物成八七石余、竈数四七・家数七九・人数一八四、牛二五・馬八、大応だいおう寺など。旧高旧領取調帳では高一九五石余。寛永年間より人馬継立をする本宿であったが、享保年間(一七一六―三六)に大火災があり、安永三年(一七七四)から徳力とくりき村が本宿となり、当村は領内の用のみを行う半宿となった(「小倉藩政時状記」県史資料五)


石原村
いしはらむら

[現在地名]太田市石原

東長岡ひがしながおか村の東、金山かなやま丘陵東南の台地上に位置し、南は下小林しもこばやし村、東は茂木もてぎ村、北は台之郷だいのごう。北辺を日光例幣使街道が東西に通り、西境を休泊きゆうはく堀が南流する。天正一五年(一五八七)八月二日の北条家朱印状(写、安得虎子)で、「新田領石原郷之内弐拾貫文」が岡本政秀に宛行われている。寛文郷帳では田方一二三石余・畑方一四〇石余、館林藩領。元禄郷帳では旗本植村領。明和三年(一七六六)の太田宿助郷帳(太田市役所蔵)によると勤高一四〇石八斗。江戸後期の御改革組合村高帳では家数三二、植村領。


石原村
いしわらむら

[現在地名]宿毛市小筑紫こづくし町石原

福良ふくら村の東から南にかけての福良川中流域の村。「土佐州郡志」は「東限下切界津々良坂、西限添野川、南限宗呂、北限福良界地蔵堂、東西一里十五町南北一里十町、其土多石」と記し、福良境については天正一七年(一五八九)の石原村地検帳に「福良ト石原トノ堺、東ハ赤キシ永ウ子ヲ限、西ヘ地蔵堂ノコヘ尾ノホリ成リ」とある。現在、通称に小三原こみはら舟の川ふねのかわ葛籠つづらがあり、応徳二年(一〇八五)一一月一二日付福良専当外二名連署堺定書(安芸文書)に「つゝら」、前記地検帳に「舟ノ川」「ツヽラノ村」「小三原」が所見、また前記定書には当地の山林「焼井川」のことが「やけやかわ」とみえている。


石原村
いしはらむら

[現在地名]三次市石原町

海渡うと村の東南、美波羅みはら川東側にあり、「国郡志下調書出帳」には「東南北三方共山連り、就中巽の方尤嶮岨(中略)田方水通り之儀ハ七分方溜池掛り、三分方ハ無水ノ所、年ニ寄り旱魃之患御座候、産業之儀ハ農業一途ニ浮儲も無御座候(中略)土地之儀ハ当郡ニ中下ノ村柄ニ御座候」と記す。

江戸時代を通じて広島藩領で、同書出帳によれば、文政三年(一八二〇)当時、田一五九石余(畝三五町余)、畑三二石余(畝七町余)で四八石余(畝二町余)が古荒川成となっており、ほかに一石七斗余(畝六反一畝余)の新開地があった。全村明知方で、この年の土免は七ツ四歩三厘の高率で(新開は四ツ五分五厘)、定物成二六四石余(口米を含む、他に新開八斗余)


石原村
いしはらむら

[現在地名]北会津村中石なかいし

四方は開けた田で、東は中里なかざと村、北西は田村山たむらやま村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二一八石余。寛文五年(一六六五)の「万改帳大沼郡中荒井組」では高二二六石余、免七ツ四厘、家数二六・竈三三、男七四・女六二、馬一二。文化一五年(一八一八)の村日記では高三〇二石余。化政期の家数一〇(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数一三(寺一)・人数六三(人員録)。同八年中里村と合併して中石村となる。

真言宗豊山派宝蔵ほうぞう院は尼寺で、山号を石沢山と号し、康保元年(九六四)久光坊の草創と伝える。


石原村
いしはらむら

[現在地名]可児市西帷子にしかたびら

菅刈すげかり村の西、北流する木曾川支流山沢やまさわ川上流部にある。北東から南西に通る木曾街道沿いに民家が並ぶ。帷子七郷の一。慶長郷帳などでは「かたひら村」と一括して記され、尾張藩領。慶長一四年(一六〇九)の検地では元高一七八石余・高一七九石余、田七町八反余・畑六町八反余(寛政七年「高田畑書上帳」小池文書)。明暦覚書に「帷子郷之内石原村」とみえ、桑木・漆木高を含む概高一七九石余、そのほかに真禅しんぜん寺領一〇石。人数一〇三、馬七。「濃陽志略」では家数五五・人数二五〇。「濃州徇行記」によれば田七町八反余・畑六町八反余。


石原村
いしはらむら

[現在地名]君田村石原

藤兼ふじかね村の北に位置し、神之瀬かんのせ川の支流茂田もだ川がつくる沖積平野と、それに続く丘陵に立地。東は西入君にしいりぎみ村。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳に村名がみえ、高三二四・三二石を記す。享保七年(一七二二)写の三次郡覚書(広島大学蔵)に「高拾石五升九合、但公儀御帖面之外出高」とあるのは、明暦三年(一六五七)三次藩の行った検地により打出されたものであろう。


石原村
いしわらむら

[現在地名]熊本市石原町

託麻原たくまばる台地の北端に位置する神園こうぞの(一八三メートル)の北麓の緩い傾斜地にあり、村内を馬場楠ばばぐす井手が東西に貫流し、白川は集落北側で鋭く曲流する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると畠方二四町三反六畝余、分米一三六石六斗余、名請人三〇のうち屋敷所有者三とある。同一三年の検地帳では田なし、畠方三七町二反六畝余、分米二一三石二斗余で、竈数一八・棟数三八、人数四四、牛馬七とある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳では津久礼組に属し、戸数六(うち一戸は無高の牢人)、家数四六、人数三九(うち庄屋一・百姓四・名子四・下人二)、牛馬一五、高二一三石二斗余(うち一九石四斗余は出作分)である。


石原村
いしわらむら

[現在地名]下関市大字石原

あお(二八八メートル)の西側に位置し、村内を綾羅木あやらぎ川が南流する。西は有富ありどみ、北は小野おの、東は形山かたちやま、南は秋根あきねの各村と接する小村。長府藩領で西豊浦郡前支配に属する。

「地下上申」では石原村は有富村の一小名である。豊浦藩明細書では独立村として記される。田面積三町余で石高は一三三石余、畠高は有富・延行のぶゆき・石原の三村合計で記され一六七石余。


石原村
いしはらむら

[現在地名]浜松市石原町・芳川町ほうがわちよう

安松やすまつ村の南東に位置し、南は立野たての村・四本松しほんまつ村。松平忠頼領郷村帳に村名がみえ、高一六八石余、ほか四拾六所(現津毛利神社)領三石、毘沙門(現時宗毘沙門寺)領九石、新福しんぷく(現臨済宗方広寺派)領一石。


石原村
いしはらむら

[現在地名]中央町岩野いわの 石原

小岩野こいわの村から釈迦院しやかいん川のさらに上流にある。東にくろ山を隔てて九尾ここのお(現砥用町)、南に下草野げぞの村・椿つばき村がある。慶長国絵図に村名の記載はないが、慶長一二年(一六〇七)検地帳作成の記録にみえる(「肥後豊後検地諸帳目録」県立図書館蔵)


石原村
いしわらむら

[現在地名]住用村石原いしはら

山間やんま村の北に位置し、西部にヤクカチョボシ岳、東手にはたきはな(四八三メートル)などの山嶺が連なり、集落は住用川の流域にある。住用すむゆう間切のうち。正保琉球国絵図に村名の記載はないが、滝ノ鼻山の南東の崎に「城のはなれ」と記される。「大島私考」に住用間切一五ヵ村のうちとして「石原村」とみえ、高一〇〇石余、うち享保内検後の開地は四石余。


石原村
いしはらむら

[現在地名]邑智町石原

西流する沢谷さわだに川に南流する千原ちはら川が合流する地点の下流右岸に位置し、西は川戸かわど村。銀山街道筋にあたる。銀山御囲村に指定されている。正保国絵図では高一九六石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によれば田方一六四石余・畑方三一石余、年貢高は米一一三石余・銀二二五匁余、小物成は山手役一五匁など、家数は本家三三・門屋一三、人数一八一、真宗法光ほうこう(現浄土真宗本願寺派)がある。


石原村
いしはらむら

[現在地名]八幡町初納しよのう

吉田よしだ川右岸にあり、南西下流は符路ふみち村。正保郷帳に田方五九石余・畑方九四石余とある。寛文四年(一六六四)の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)に余分新足軽として石原村石神弥平次がみえる。宝暦六年(一七五六)の郡上郡村高覚帳(鈴木文書)では家数一八(水呑一)、年貢定米三九石余。


石原村
いしはぎむら

[現在地名]三間町増田ますだ

三間盆地の南部、三間川の南岸に位置する。北は三間川を隔てて元宗もとむね村に、西は土居中どいなか村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「石原村 茅山有、川有」と村名がみえる。吉田藩領であった。天保九年(一八三八)宮野下みやのした村の御巡見使御道筋御案内には「増田村之事御尋有之時ハ石原村ト可申上事」とあり、この頃には増田村と改称されていたことがわかる。


石原村
いしばるむら

[現在地名]清川村六種むくさ 石原

泉園いずみぞの村の南の山間にあり、西方を馬背戸ませど川が北流する。江戸時代後期に独立村となったとみられ、安永七年(一七七八)には馬背戸組に属していた(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)


石原村
いしはらむら

[現在地名]豊川市三谷原みやはら

雨谷うや村・三橋みつはし村とともに旧豊川河川敷上の右岸にある。三河国吉田領人馬役割帳(島原市本光寺蔵)に載る慶長九年(一六〇四)の検地高は八八石余。享保一〇年(一七二五)の吉田宿助郷帳によると、村高一〇七石のうち助郷高は八八石で、吉田よしだ宿(現豊橋市)まで一里三〇町。


石原村
いしはらむら

[現在地名]唐津市枝去木えざるき

東松浦半島上場うわば台地のほぼ中央の丘陵地で、人家は丘陵間の狭い平坦地に孤立して点在する。水利に恵まれず、旱魃になりやすい。村内を名護屋なごや往還(太閤たいこう道)が通る。


石原村
いしはらむら

[現在地名]仁多町三所みところ

里田さとだ村の北東の谷間に位置する。正保国絵図に村名がみえる。慶安三年(一六五〇)の検地帳によると田高九九石余・反別七町四反余、畑高一九石余・反別二町九反余、屋敷数八(うち引方六)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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