日本歴史地名大系 「石原村」の解説
石原村
いしはらむら
東は
天和元年(一六八一)に鳥羽藩領に編入した際に、
宝永四年(一七〇七)の御本帳写名寄帳(石原区有)の高持は四三人で一〇石以上二、三石以下一五となり、実際の作人は一〇二人である。宝永七年の指出帳(石原区有)には、田反別四町二反八畝余・畑屋敷反別一九町四反三畝余の畑地の多い村で、年貢は畑方がちのため
石原村
いしはらむら
〔中世〕
鎌倉―戦国時代には小佐郷恒富名(方)に属した。初見は文永五年(一二六八)六月二三日付の権律師某油畠寄進状(日光院文書、以下断りのない限り同文書)で、「重代之本領」という「石原村」にある畠一段を「石原妙見大菩薩御油畠」に寄進している。「石原妙見」「石原日光院」といわれるように、妙見社とこれを祀る日光院があり、日光院伝来文書中に当村の史料が散見する。永和二年(一三七六)二月九日には源左衛門尉祐尚が「小佐郷恒富名石原舞人」を「石原日光御院」に寄進している。石原舞人とは当村にある舞人田の意味であろう。
石原村
いしはらむら
- 京都市:南区
- 石原村
北と東は吉祥院村、南は
古代の石原郷(和名抄)に属し、条里区画でいえば下石原西外里(嶋固里)の一部が村域にかかっている。かつてこの地には「三代実録」貞観三年六月七日条に「山城国奏言、河陽離宮、久不行幸、稍致破壊、請為国司行政処、但不廃旧宮名、行幸之日、将加掃除、許之」とみえる。桓武天皇の皇子賀陽親王の離宮が営まれたとされる。「賀陽親王石原家」(三代実録)とも称されたこの離宮跡の場所は定かではない。この地は、一一世紀半ばに石原庄として立券され、この荘園を前身として石原村の成立をみた。
石原村
いしわらむら
石原村
いしばらむら
郡の東端、吉田川北岸に位置し
石原村
いしはらむら
- 群馬県:渋川市
- 石原村
石原村
いしはらむら
広瀬村の北、
石原村
いしはらむら
石原村
いしはらむら
石原村
いさむら
- 京都府:福知山市
- 石原村
福知山盆地の中央部、西流する由良川の左岸にあり、東は
古代には
石原村
いしはらむら
石原村
いさらむら
絵図郷村帳に
石原村
いしはらむら
石原村
いしわらむら
- 大阪府:堺市
- 石原村
石原村
いしはらむら
元禄地払帳では総地高四四七石余、うち本田高一六九石余・新田高二七八石余。
石原村
いしはらむら
石原村
いしはらむら
石原村
いしはらむら
石原村
いしはらむら
石原村
いしはらむら
石原村
いしはらむら
石原村
いしはらむら
石原村
いしはらむら
石原村
いしわらむら
- 高知県:宿毛市
- 石原村
石原村
いしはらむら
- 広島県:三次市
- 石原村
江戸時代を通じて広島藩領で、同書出帳によれば、文政三年(一八二〇)当時、田一五九石余(畝三五町余)、畑三二石余(畝七町余)で四八石余(畝二町余)が古荒川成となっており、ほかに一石七斗余(畝六反一畝余)の新開地があった。全村明知方で、この年の土免は七ツ四歩三厘の高率で(新開は四ツ五分五厘)、定物成二六四石余(口米を含む、他に新開八斗余)。
石原村
いしはらむら
石原村
いしはらむら
- 岐阜県:可児市
- 石原村
石原村
いしはらむら
石原村
いしわらむら
- 熊本県:熊本市
- 石原村
石原村
いしわらむら
- 山口県:下関市
- 石原村
「地下上申」では石原村は有富村の一小名である。豊浦藩明細書では独立村として記される。田面積三町余で石高は一三三石余、畠高は有富・
石原村
いしはらむら
石原村
いしはらむら
石原村
いしわらむら
石原村
いしはらむら
石原村
いしはらむら
石原村
いしはぎむら
石原村
いしばるむら
石原村
いしはらむら
- 愛知県:豊川市
- 石原村
石原村
いしはらむら
- 佐賀県:唐津市
- 石原村
東松浦半島
石原村
いしはらむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報