日本歴史地名大系 「磨屋町」の解説 磨屋町とぎやまち 長崎県:長崎市長崎町磨屋町[現在地名]長崎市古川町(ふるかわまち)・諏訪町(すわまち)銀屋(ぎんや)町の北東、中島(なかしま)川左岸にある長崎外(そと)町の一ヵ町で、陸手に属した。刀剣などを磨く職人が開いたことに由来する町名とされ、町並はほぼ南北で、町内を鹿解(ししとき)川が流れる。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付では「ときや町」のキリシタンの寿庵が署名。正保四年(一六四七)の外町箇所数帳(柏原家文書)では箇所数四一。寛文三年(一六六三)の大火で二九二間余・家数四八を焼失(寛宝日記)、同一二年の間数二一一間・実箇所数四四・諸役御免箇所五(長崎県史)。元禄二年(一六八九)改の間数二一一間余で、四四箇所のうち三箇所(うち常行司屋敷詰二箇所)が諸役御免(長崎拾芥)。 磨屋町とぎやちよう 岡山県:岡山市岡山城下磨屋町[現在地名]岡山市磨屋町・平和町(へいわちよう)外堀と西(にし)川の間にある郭外職人町。東西の道を挟み東西に発達した両側町。東は道を隔て外堀、南は細堀を隔てて蓮昌(れんじよう)寺・田(た)町、西は細堀・道を隔て野殿(のどの)町、北は桶屋(おけや)町・薬師院・岡山寺を隔て柿屋(かきや)町。寛永城下絵図では柿屋町・桶屋町・野殿町の三町すべてが「ときや町」とみえ、慶安城下絵図では柿屋町以下が成立して前述町域となる。宇喜多氏時代に成立していたと思われる。宇喜多氏時代には山陽道筋であったと伝える。延宝四年(一六七六)万(よろず)町・岩田(いわた)町が成立した折道筋を変更したものか。古くは磨屋が多く居住していたので町名となり、刀剣の細工人も群居する(吉備温故秘録)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by