〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
宝亀一一年(七八〇)の西大寺流記帳に「夫西大寺者 平城宮御宇 宝字称徳孝謙皇帝、去天平宝字八年九月十一日誓願将敬造七尺金銅四天王像、兼建彼寺矣」とある。天平宝字八年(七六四)九月一一日は恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が発覚した日で、称徳(孝謙)天皇はこれを機に鎮護国家を祈願し、四天王像造立の発願があったものと考えられる。翌天平神護元年(七六五)四天王像が完成し、伽藍が開かれた。西大寺流記帳は「居地参拾壱町、在右京一条三四坊、東限佐貴路除東北角喪儀寮南限一条南路、西限京極路除山陵八町北限京極路」と寺地を記している。「続日本紀」天平神護二年一二月一二日条に「幸西大寺」とあり、称徳天皇が行幸。この頃は四王堂は完成していたが、伽藍全体の造営は完了していなかったので、神護景雲元年(七六七)二月二八日には佐伯今毛人が造西大寺長官、大伴伯麻呂が次官に任ぜられている(続日本紀)。称徳天皇はその後も西大寺の
金堂が完工したのは神護景雲三年頃と考えられる。この年天皇は西大寺に行幸し、佐伯今毛人を従四位下から従四位上に進め、他の関係者にもそれぞれ位を与えた。西大寺流記帳に
宝亀三年四月二九日に西塔が震動し、一一月一日に造西大寺の員外次官に栗田公足が任ぜられ、修理次官は軽間鳥麻呂に決定した。
高野山真言宗別格本山、山号は金陵山、本尊は千手観音。三千一五〇坪の境内に仁王門・石門・本堂・三重塔・阿弥陀堂・大師堂・牛王所宮・稲荷堂・忠霊堂(薬師堂)・経蔵・客殿・庫裏などの伽藍を有する。備前地方有数の古刹。寺伝によると、天平勝宝三年(七五一)周防国
延慶四年(一三一一)備後
吉井川の河口に位置し、水陸交通の要衝の地にあった当寺は、鎌倉時代末期には金堂(三間四面)・常行堂(三間四面)・僧坊(七間四面)・仁王堂・三層塔・鐘楼・経蔵などの伽藍、寺僧数十人を擁するほどの大寺であった(前掲化縁疏并序)。しかし、正安元年(一二九九)一月二一日夜、大地震動おびただしく、翌二二日に「天火降下」り伽藍を全焼、本尊も頭部と手を残して焼失した。このため同三年一月から本尊を修理し、伽藍の再建が進められた(前掲永正本縁起)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良市西大寺芝町にある真言律宗の本山。高野寺(たかのでら)ともいう。南都七大寺・十五大寺の一つ。本尊釈迦如来。平城宮の西方に位置し,東大寺に対して西大寺と称せられた。当寺の創建は764年(天平宝字8)9月に起こった恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の鎮定を祈願して,孝謙上皇が銅造7尺の四天王像の造立を発願したのに始まり,765年(天平神護1)に四天王像は完成し,四王院(堂)に安置され,伽藍の基が開かれた。767年(神護景雲1)2月から768年2月に及んで佐伯今毛人,大伴伯麻呂,高市麻呂などが造西大寺長官,次官,大判官などに任命され,以後薬師金堂,弥勒金堂をはじめ東西両塔や十一面堂などが建立された。寺地は平城右京一条三,四坊の31町に及び,東大寺に次ぐ広大な面積を占め,伽藍地は1134年(長承3)の《大和国南寺敷地図帳案》によると,右京一条三坊五坪から十六坪の東西3町,南北4町の12町を当寺敷地とし,伽藍中心線は九坪と十二坪の中心線に求められる。
創建当初の伽藍は,講堂を欠き薬師,弥勒の2金堂を南北に並立し,東西に四王院と十一面堂,東西に五重の両塔を配し,安置する諸仏像とともに豪華華麗を極め,まさに奈良時代最後を飾る官大寺にふさわしいものであった。772年(宝亀3)4月,776年7月に西塔に落雷,桓武朝の緊縮財政下にあっても,798年(延暦17)12月藤原緒嗣を造西大寺長官に,804年5月には坂上田村麻呂を同次官に任命,造営の工事はなお引き続いて行われていた。以後846年(承和13)12月,927年(延長5)10月,928年7月など再三にわたり堂塔が罹災焼亡し,平安時代末期には〈寺中諸堂等皆以て顚倒して実無く,只楚石のみ有り。僅かに存するところは食堂・四王堂のみ〉(《七大寺巡礼私記》)といわれた。鎌倉時代にはいり,1235年(嘉禎1)5月に入寺した叡尊により,戒律復興と当寺の再興が行われた。叡尊は戒律の復興を果たさんがために諸種の版経を開版,いわゆる西大寺版を印行し,子弟教育に当たった。64年(文永1)9月には光明真言会を開き,広く庶民の救済を行い,今日に至るまで当寺の年中行事の一つとして伝えられている。鎌倉幕府の執権などの帰依や宮廷,公卿の崇敬をうけて叡尊在世中には寺領も増加し,98年(永仁6)4月には関東御祈願寺となり,真言律宗の基を開いた。以後1307年(徳治2)に弥勒金堂が焼亡,南北朝の動乱を経て室町時代に多くの堂舎が焼亡し,江戸時代に至って護摩堂,四王堂(観音堂),本堂が建立された。現在境内は国の史跡に指定されている。なお毎年4月15~16日に行われる茶会,大茶盛式で名高い。
執筆者:堀池 春峰
創建時の中心伽藍は,《西大寺資財流記帳》(780)によれば,金堂院のみで講堂,鐘楼,経蔵,三面僧房,食堂がなく,これらの機能を四王院,十一面堂院,食堂院に分散させた特異な形態をもつ。旧金堂院一帯は宅地化され,現寺域は旧塔院,四王院にあたり,創建時のものとして東塔基壇,西塔跡,四王堂土壇を残す。建物では南門(室町初期)のほか江戸時代再建になる本堂,四王堂,愛染堂などがある。寺宝には,天平時代造像唯一の遺品である四王堂安置の四天王足下の邪鬼,東塔四方仏とみられる釈迦,阿弥陀,宝生,阿閦(あしゆく)如来(平安初期),また叡尊80歳の寿像興正菩薩像(善春作,1280),叡尊発願の清凉寺釈迦模造の代表作釈迦如来像(善慶作,1249)など善派の作が残る。そのほか由緒明らかな天平経の代表的遺品《金光明最勝王経》(762),《大毗盧遮那成仏神変加持経》(766),仏教絵画遺品中もっとも異彩に富む《十二天像》(9世紀後半),鎌倉時代の金属工芸品を代表する金銅宝塔(1270),鉄宝塔(1283),透彫舎利塔などがある。
執筆者:宮本 長二郎
備前国(岡山県)上道郡の南東部,吉井川右岸に発達した河港・門前町で,現在は岡山市東区西大寺。名刹金陵山西大寺(真言宗)の門前町として,早く中世後期には市座などで栄えた。
金陵山西大寺の門前市。金岡東荘に属し,鎌倉末期,実検に際して作成されたと思われる西大寺観音院境内古図の裏書に,市公事が国方地頭方の支配下にあり,酒屋,魚座,餅屋,莚座,鋳物座その他の市座の公事銭の額を定めた文言がみえる。この史料は1926年に平泉澄が紹介して,日本の市座の初見史料として有名になった。《西大寺文書》にも1492年(明応1)以降の市場屋敷の灯油免,雑役免に関する史料がある。
執筆者:石田 善人
江戸初頭に岡山藩公定の13の在町の一つとなり,高瀬舟と回船との積替え港の機能を発揮して町屋の発達をみた。西大寺の問屋は岡山藩から,作州天領の米麦その他木炭,薪などを積み降ろす特権を許されており,全盛期は江戸時代から1887年ころまでで,最盛期には高瀬舟が200隻を越えたといわれる。今に市場町,川崎町,渡場町,新堀町などの町名が残存して,往時がしのばれる。91年山陽鉄道の開通により,作州の物資は阪神へ鉄道輸送されるに至り,河港機能は衰微した。96年町制施行,当時戸数752戸,人口3185人で上道郡役所も設置された。1953年市制施行,69年岡山市に編入。
執筆者:谷口 澄夫
岡山市東区西大寺にある高野山真言宗の寺。正式の寺名は金陵山西大寺観音院。寺伝によると,古く奈良時代,周防の人藤原皆足媛の開基するところという。中世に入って,観音霊場として名高くなり,また寺地が備前第一の大河である吉井川の河口に位置して交通の要地でもあったので,門前町が発達して座商人が各地から集まり,当寺は備前南部における信仰,交易,商業の中心地として栄えた。しかし,戦国期に伽藍は2回炎上し,現在の本堂,三重塔,庫裏(くり),方丈,仁王門,牛王殿(ごおうでん),大師堂などの諸堂はいずれも近世の建物である。なお,天下の奇祭で有名な当寺の〈会陽(えよう)〉は,修正会が結願する旧正月14日の夜に行われる裸祭(はだかまつり)である。この夜,境内境外は吉井川で沐浴した数千の裸群と,万余の見物人であふれ,深夜に至って,院主が裸群に投じるシンギ(神木,牛王,宝木)をめぐって勇壮な争奪戦がくりひろげられる。
執筆者:藤井 学
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岡山市東区の中部を占める地区。上道(じょうとう)郡の中心であった西大寺町は1953年(昭和28)上道郡、邑久(おく)郡の9村を合併して市制施行。1969年岡山市に編入。吉井川下流の右岸にある西大寺観音院の門前町、また川湊(かわみなと)として繁栄した。江戸時代岡山に城下町が建設されると、藩主池田氏は西大寺の有力商人を城下に移住させて商業の発展を図った。いまも岡山市街の表町の一部に西大寺町という名が残っている。近世を通じて岡山藩、津山藩の廻米(かいまい)、新田地帯の綿花を扱う商港であり、南部に新田開発が進むとその先端の九蟠(くばん)港を外港とした。明治以後は地元資本の西大寺紡績(のち岡山紡績と合併)、山陽板紙(現在は独立行政法人国立印刷局岡山工場が立地する)などによる工業化が進んだ。昭和になると帝国化工、日本エクスランなどの工場の立地をみた。岡山市とは1911年(明治44)以来西大寺軽便鉄道で結ばれていたが、同線は現JR赤穂(あこう)線の開通で1962年廃止された。現在は旧上道郡地域の商業中心であるとともに岡山市中心市街地のベッドタウンとなっている。西大寺観音院は奈良時代の創建で、2月の会陽(えよう)行事(裸祭り。国指定重要無形民俗文化財)で知られる。
[由比浜省吾]
岡山市東区西大寺にある高野山真言(こうやさんしんごん)宗の別格本山。金陵山(きんりょうざん)西大寺観音院(かんのんいん)と号する。本尊は千手(せんじゅ)観音。中国観音霊場(1982開創)第1番札所。751年(天平勝宝3)周防国(すおうのくに)(山口県)藤原泰明の娘皆足(みなたる)姫の開基で、のち紀州(和歌山県)の安隆上人(しょうにん)によって当地に開山。初め犀戴寺(さいたいじ)と号したが、後年後鳥羽(ごとば)上皇の祈願から寺名を西大寺と改称した。現在の本堂は1863年(文久3)に再建され、正面12間側面14間の欅(けやき)造りで、県下随一の大きさを誇る。2月第3土曜に行われる会陽(えよう)(裸祭り。国指定重要無形民俗文化財)は天下の奇祭として有名で、その歴史は奈良時代に起因している。鐘楼門の銅鐘はおよそ1000年前新羅(しらぎ)から将来した貴重な文化遺産で、国指定重要文化財である。そのほか、絵巻物『紙本著色金陵山古本縁起』(県指定重要文化財)や多くの古文書がある。
[野村全宏]
奈良市西大寺芝(しば)町にある真言律宗の総本山。山号は勝寶山(しょうほうざん)。765年(天平神護1)称徳(しょうとく)天皇の勅願により建立。平城京の東にあった東大寺に対し、西の大寺にふさわしく膨大な規模をもち、南都七大寺の一つであったが、平安時代には再三の災害で衰退していった。しかし鎌倉時代に叡尊(えいそん)が再興し、戒律の根本道場として大いに栄えた。その後兵火にあい堂塔を焼失し、現在の本堂、愛染(あいぜん)堂などは江戸時代のものであるが、巨大な基壇、礎石などが往時の偉容をしのばせている。寺宝には平安時代の傑作といわれる十二天画像、鉄宝塔、金銅透彫舎利塔、金銅宝塔、『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』10巻、『大日経』7巻などの国宝、本尊釈迦如来(しゃかにょらい)立像、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)像などの国指定重要文化財は非常に多い。毎年1月15日、4月第2日曜とその前日の土曜、10月第2日曜に行われる大茶盛(おおちゃもり)式は、叡尊が1239年(延応1)正月に修法後、鎮守八幡(はちまん)に献茶され、余服を参衆に施されたことに始まり、現在でも尺余の大茶碗(ちゃわん)で飲む独特な茶会として有名である。また叡尊は花道にも見識があり、それが松月堂古流として継承されている。
[眞柴弘宗]
『『古寺巡礼 奈良8 西大寺』(1979・淡交社)』
1高野(たかの)寺とも。奈良市西大寺芝町にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一つ。勝宝山と号す。764年(天平宝字8)恵美押勝(えみのおしかつ)の乱に孝謙上皇が戦勝を祈願して四天王像の造立を発願。乱後,四王院(堂)が建立され,やがて平城右京一条三・四坊に31町を占める東大寺に匹敵する規模に拡大されて,西大寺と名づけられた。平安時代になると火災などでしだいに衰退,興福寺支配下におかれた。叡尊(えいぞん)が1235年(嘉禎元)に入寺して伽藍を再建し,戒律の道場とした。叡尊は光明真言会(こうみょうしんごんえ)を始めるなど,当寺を拠点に南都仏教の復興を図った。1502年(文亀2)兵火で諸堂を焼失,江戸時代に再建された。国宝の「金光明最勝王経」「十二天像」や重文の銅造四天王像・木造叡尊像など文化財を多数有する。境内は国史跡。
2岡山市東区西大寺にある高野山真言宗の寺。金陵山と号す。寺伝では,奈良時代に周防国の玖珂郷(くがごう)から訪れた藤原皆足媛(みなたるひめ)が千手観音を小堂に安置したのが始まりという。当寺は奈良西大寺末寺の額安寺の荘園金岡(かなおか)東荘のなかにあり,寺号は奈良西大寺にちなむと考えられる。鎌倉末期には金堂・常行堂・僧房以下の伽藍をもったが,たびたびの火災で炎上。戦国期には宇喜多(うきた)氏の援助で再建された。現在の伽藍は江戸末期の再建。旧正月14日夜(現在は2月第3土曜)に行われる修正会(しゅしょうえ)結願の行事会陽(えよう)は,西大寺の裸祭として有名である。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…771年(宝亀2)諸大寺とともに寺印を頒布されているので,このころ造営がほぼ完成したと思われる。寺地は西大寺の近傍,右京一条二坊に4町の広さを占めた。880年(元慶4)に西大寺の管下に入った。…
…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…
…経典の雑密化の傾向は仏像にも反映し,奈良時代には四天王,梵天,帝釈(たいしやく)天の6尊構成の像が造られ,十一面観音,千手観音,不空羂索(ふくうけんじやく)観音など多面多臂の変化観音像が出現するとともに,仏教に導入された異教神である吉祥天,弁財天,伎芸天,門神としての金剛力士や執金剛神像なども造立された。 奈良末期建立の西大寺は罹災により創建時の像は失われているが,〈西大寺資財帳〉によって,馬頭(ばとう)観音,孔雀明王,那羅延(ならえん)天,火頭金剛,堅牢地神など,のちの純密に属する像がすでに造像されており,平安初期の空海らの純密の請来も,けっして唐突なものではなかったことがわかる。
[純密の時代]
まず最澄,空海をめぐる美術をとりあげる。…
※「西大寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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