日本歴史地名大系 「示野新村」の解説 示野新村しめのしんむら 富山県:東礪波郡城端町示野新村[現在地名]城端町西原(にしはら)・塔尾(とうの)・国広(くにひろ)山田(やまだ)川左岸、南は野口(のぐち)村、北は金戸(かねと)村、西は千福新(せんぶくしん)村。東には山田川の低位段丘が展開する。示野は標野(しめの)の当て字で、かつて一般人の立入りが許されなかった神社領か、あるいは貴人の領地か、禁忌にかかわる原野を新開したことからと考えられる。正保郷帳では金戸村に並記されるほか、別筆で示野新村二四石余(畑方一町六反余)がみえる。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四五石、免三ツ(三箇国高物成帳)。文政八年(一八二五)能美組、天保一〇年(一八三九)以降山田組に属した。嘉永六年(一八五三)の村鑑帳(菊池家文書)では草高六一石、免三ツ一歩、家数七・人数三五(男一九・女一六)、おもな稼は日用・苧・布・蚕など。 示野新村しめのしんむら 富山県:東礪波郡庄川町示野新村[現在地名]庄川町示野青島(あおしま)村の南西にある。明暦二年(一六五六)新(しん)用水から金屋岩黒(かなやいわぐろ)村で分口して用水(示野用水)を引き、示野松原という野を新開(元禄一四年「村名由来書」川合家文書)、同三年に村立てされた(出来新村・退転村記申帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二九石・免二ツ八歩、明暦二年新田と記される。その後延宝三年(一六七五)に一八六石余、同七年に六三石余など新開高・畑直高などが加わった(三箇国高物成帳)。延宝四年の役家数四(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by