日本歴史地名大系 「神鳳寺跡」の解説
神鳳寺跡
じんぽうじあと
清首麻呂家
終成
寺院
、遷
彼仏像
、今在西仏堂是也、今大鳥神宮寺神鳳寺是也」とあり、和銅元年(七〇八)行基の開創と伝える。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての様子を伝えるとされる大鳥神社流記帳(内閣文庫蔵)に、正一位勲八等天照大明神(大鳥神社)の社敷の内として「神宮寺一院法名神鳳寺」とあり、「神宮寺領大鳥里十五坪四段、金堂二宇東院・西院」とみえる。また大明神の下脇に「立十三重塔一基」と注記があるが、同塔も当寺の伽藍の一つであったと思われる。文明一五年(一四八三)一一月、勧学院済全が大鳥下条の田地二反加地子分を田代氏に売却した売券(田代文書)によると、本役の反別一斗は「神宮寺薬師堂」の沙汰であるとされ、当寺独自の免田も存在している。
弘化三年(一八四六)の大鳥五社大明神並別当真言律宗大鳥山神鳳寺由緒書(「大阪府全志」所収)によると天正期(一五七三―九二)以降の兵乱にかかり荒廃したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報