大鳥村(読み)おおとりむら

日本歴史地名大系 「大鳥村」の解説

大鳥村
おおとりむら

[現在地名]堺市鳳北おおとりきた町一―一〇丁・鳳中おおとりなか町一―九丁・鳳東おおとりひがし町一丁・同四―六丁など

船尾ふなお村の南に位置する。村のほぼ中央を熊野(小栗)街道が通り、集落は街道沿いの村中心部および南端部にある。大鳥郡に属する。古代は大鳥郷、中世は大鳥庄に含まれた。和泉国一宮大鳥神社の鎮座地。古くは野田のだ村・村・なか村とも称し、建久七年(一一九六)七月四日の和泉国留守所下文案(「徴古雑抄」大鳥郷文書)に「野田村刀禰大和」「中村刀禰坂上」とみえる。野田村・中村は大鳥村域内に含まれる小村と考えられ、時によって大鳥村をさす名としても用いられたものと思われる。

大鳥村
おおとりむら

[現在地名]朝日村大鳥

現村域の南東端に位置し、地内南東の大鳥池を源とする大鳥川(赤川本流)が北流し、両岸に展開する河谷平野に集落が散在。縄文時代の集落跡である繁岡しげおか遺跡があり、寿岡としおかには安倍氏の一族が隠れたという大鳥館跡がある。開村は源頼朝の家人工藤祐経の弟大学の一族によるものと伝える(大鳥村外創村旧記)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高六四石余、正保郷帳では田高七六石余・畑高一二石余。

大鳥村
おおとりむら

[現在地名]保原町大柳おおやなぎ

在市柳ざいいちやなぎ村・高子たかこ村の南、山間部に位置し、東西に細長い。西は信夫しのぶ鎌田かまた(現福島市)。村名は霊山りようぜんが栄えた頃、大きな鳥居が当村字大日向おおひむきに設けられたことに由来するという(信達二郡村誌)。弘治三年(一五五七)八月吉日の梁川八幡宮祭礼規式写(関根文書)に「氏神稲荷明神右御へい 禰宜□一郎 大(鳥)十弐丁 猿カウノ祭リ」とある。寛文一一年(一六七一)上保原村から分村して成立したともいう。古高新高帳によれば米沢藩領時代の古高四九四石余、幕府検地による新高三三三石余。天和三年(一六八三)幕府領から梁川藩領となり、享保一五年(一七三〇)幕府領、安永四年(一七七五)仙台藩預地、寛政元年(一七八九)幕府直轄領に復し幕末に至る。

大鳥村
おおとりむら

[現在地名]大野町大原おおはる 大鳥

住吉すみよし村の南、南西流する酒井寺さかいじ川東岸にある。犬飼いねかい道が北東から南西へ通る。正保郷帳に村名がみえ、田高二二三石余・畑高一一七石余、一万田いちまんだ郷に属し、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高一七七石余。安永七年(一七七八)には酒井寺組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。岡藩小制札場が設置されていた(岡藩御覧帳細注)

大鳥村
おおとりむら

[現在地名]天瀬町合田ごうた

柚野木ゆのき村の南、玖珠くす川左岸に位置し、大鳥・やまつるの集落からなる。正保郷帳に村名がみえ、田高一二〇石余・畑高二五三石余で、五馬いつま庄に属した。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では免一ツ九分で、永荒一七七石余。享保八年(一七二三)の日田郡毛付高帳(千原家文書)では毛付高二一七石余。

大鳥村
おおどりむら

[現在地名]久居市大鳥町

榊原さかきばら川の右岸にあり、一色いつしき村のすぐ西北に隣接し、榊原村との間に挟まれている。文禄検地帳(久居市中央公民館保管)表紙に「七栗中村之内大鳥村」とあり、その村高一八一・六六四石もなか村の村高のなかから再掲したものであって、この当時まだ中村の属邑的状態であったことを思わせる。江戸時代初頭、津藩領に属していたが、寛文九年(一六六九)の分知によって久居藩領となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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