デジタル大辞泉 「本居宣長」の意味・読み・例文・類語
もとおり‐のりなが〔もとをり‐〕【本居宣長】
小林秀雄の長編評論。昭和40年(1965)から昭和51年(1976)まで「新潮」誌に連載。最終章を書き下ろし、全体を調整した上で、昭和52年(1977)刊行。翌年、第10回日本文学大賞受賞。
江戸時代中期の国学者、神道(しんとう)学者。鈴迺屋(すずのや)と号する。享保(きょうほう)15年5月7日に生まれる。伊勢(いせ)国松坂の木綿問屋小津定利(おづさだとし)(1695―1740)の二男。母はお勝(1705―1768)、幼名は富之助。父の死後、1748年(寛延1)19歳で同国山田の紙商今井田家の養子となったが、21歳で不縁となって実家に出戻り、翌1751年(宝暦1)兄の死によって小津家の家督を相続した。若くから和歌を習い四書五経を読み、商売には不向きであったうえ家運も傾いたので、翌23歳の暮れ、医師となるため京都に遊学した。そのころ姓を本居に改めている。
宣長はまず朱子学者堀景山塾に入って儒書を読み、堀元厚(ほりげんこう)(1686―1754)について李朱(りしゅ)医学の基本図書を学び、元厚の死後李朱医学の大家武川幸順(たけかわこうじゅん)(1725―1780)のもとで臨床医術を修めて、1755年26歳で医師の免許を得、名を宣長、医師名を春庵と号して診療にも従った。
宣長は当時京都に興隆してきた医学の新風古医方(こいほう)にひかれ、古医方の大家香川修庵(かがわしゅうあん)(1683―1755。後藤艮山(ごとうこんざん)、伊藤仁斎(いとうじんさい)の門人)に私淑して、1756年には李朱医学を非難して古医方に従った医学論を友人への書簡のなかで述べている。古医方というのは、陰陽五行説によって病因と治療の方を考える形而上(けいじじょう)学的な李朱医学に反対して、親試実験によって病症と薬剤、鍼灸(しんきゅう)の間に経験的法則をみいだそうとする実証的な医学であった。しかも宣長はそのころ荘子に傾倒して、〔1〕今後は「私有自楽」の境地に「人情の解放」を求めて和歌文学に耽(ふけ)る旨を宣言し、同時に〔2〕人事自然の現象に「然(し)かあらしめる原因」を探し求める因果論的思考を排して「自然の神道」を唱えている。
1757年28歳のとき京都遊学から故郷松坂に帰って古医方をとる町医者となったが、その前後に国文研究の最初の論稿『排蘆小船(あしわけおぶね)』を著し、1758年には「安波礼(あはれ)弁」をつくり、『源氏物語』の講義を始め、1763年には『紫文(しぶん)要領』『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』(宣長の国文研究の主著)を著した。これらの書物のなかで宣長は、すべての物・事は「神のみしわざ」である、その「物・事の心」と「その心を知っておこす感動」が「もののあはれ」を生み出す、「もののあはれ」を知ることが文学の創作と鑑賞の根拠であると説いている。
宣長は、1763年に松坂に立ち寄った賀茂真淵(かもまぶち)に対面してその門に入り、国文学の研究から神話・神道の研究に移っていった。早くも翌1764年には『古事記』の講義を始めて、1778年(安永7)には神代巻上巻の注釈を終わり、その間1771年(明和8)に神道論『直毘霊(なおびのみたま)』の初稿(『直霊(なおび)』)を著した。
宣長は『古事記』神代巻の伝の述作にあたっても、神代では神は人であり、神と神わざは人々が見聞触知しえた経験的事実であると考え、『古事記』の神話を実証的に研究した。また宣長は『古事記』研究と同じ方法で1782年(天明2)には『真暦考』『天文図説』を著し、1777~1779年に書かれた『鈴屋(すずのや)答問録』のなかで「神道医学」の草分けともなる医学論を語っている。宣長は、神々の行為も自然の現象も、罹病(りびょう)・治癒も、すべての現象の「然(しか)る所以(ゆえん)」は神慮にある、しかし神慮を問うことは不遜(ふそん)である、すべては「神のみしわざ」で人智(じんち)の及ばぬ「あやしき」ものである、と説いた(荻生徂徠(おぎゅうそらい)の影響)。しかしすべての理を否定するわけではない、理には見聞触知しうる「事にあらわなる(howの理)」と「事にあらわならぬ(whyの理)」があり、陰陽五行の理などは後者で「こちたき漢心(からごころ)」の所産である、と厳しく排撃した(真淵の影響)。宣長はこうした経験的実証主義と神信仰を結合した神秘的不可知論をとって市川匡麻呂(いちかわたずまろ)(鶴鳴)、藤貞幹(とうていかん)(1732―1797。藤井貞幹(ふじいさだもと))、上田秋成(うえだあきなり)と論争して『葛花(くずばな)』(1780成立)『鉗狂人(けんきょうじん)』(1785成立)『呵刈葭(かかいか)』(1790ころ成立)を著し、論争の間に『玉鉾(たまほこ)百首』『玉くしげ』(ともに1787)を書いている。そのころ彼は医業に精励し、1783年(天明3)には自ら広告文を書いて薬を製造販売し、医業からの年収も生涯中もっとも多額となっている。宣長にとって、医業は単に生計を支える手段ではなく、彼の学問を特色づける経験的実証主義の思想的エネルギー源であった。
1787年(58歳)、宣長は松坂を飛地(とびち)とする本藩(紀州藩)に針医格で召し出され、藩主徳川治貞(とくがわはるさだ)(1728―1789)に『秘本玉くしげ』を上呈して、神話・神道の研究では一君万民の皇国主義を説きながら、現実の政治体制は神のみしわざである、被治者はひたすら神のみしわざ、現実には治者の法度(はっと)に随順すべしと説いた。水戸藩の儒者会沢正志斎(あいざわせいしさい)は臣道あって君道なしと批判している。
こうした国文、神話、神道の研究の間に宣長は『詞(ことば)の玉緒(たまのお)』など国語学の研究成果を次々に発表している。国語学方面は実子春庭(はるにわ)、歌文学は養子大平(おおひら)、神道論は没後の門人平田篤胤(ひらたあつたね)に受け継がれ、後世に大きな影響を与えた。
宣長は1793年(寛政5)64歳で随筆『玉勝間(たまかつま)』を起稿、1796年に『源氏物語玉の小櫛(おぐし)』、1798年には『古事記伝』44巻の執筆を終わって、翌1799年70歳で『古訓古事記』をつくり、初学者のために『初山踏(ういやまぶみ)』を書いた。また自分の過去を回想して『家のむかし物語』(1798成立)を著している。ついで1800年『遺言書』をしたため、翌享和(きょうわ)元年9月29日に72歳で病没した。遺骨は松阪市内の檀那(だんな)寺の樹敬寺墓地と、郊外の山室山に埋葬された。
[石田一良 2018年10月19日]
『奥山宇七編『本居宣長翁書簡集』(1933・啓文社)』▽『大野普・大久保正編・校訂『本居宣長全集』20巻・別巻3巻(1968~1993・筑摩書房)』▽『吉川幸次郎・佐竹昭広・日野龍夫校注『日本思想大系40 本居宣長』(1978・岩波書店)』▽『村岡典嗣著『本居宣長』(1928・岩波書店)』▽『小林秀雄著『本居宣長』(1977・新潮社/新潮文庫)』▽『吉川幸次郎著『本居宣長』(1977・筑摩書房)』▽『相良亨著『本居宣長』(1978・東京大学出版会/講談社学術文庫)』▽『石田一良「本居宣長の神道・国学と医学――宣長における宗教と自然科学」(『国士舘大学武徳紀要』第壱号所収・1984)』
小林秀雄(ひでお)の評伝。1965年(昭和40)から76年に至る11年半『新潮』に連載、77年10月新潮社刊。日本文学大賞を受けた晩年の代表作で、小林秀雄最大の仕事でもある。宣長の国学が中江藤樹(とうじゅ)、伊藤仁斎(じんさい)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の江戸儒学との関連において、古道の闡明(せんめい)・把握として理解されている。分析や解釈によるのでなく、宣長の肉声に耳を澄ますことによって宣長の思想をみいだそうとするところに、精神的人間がくぐり抜けねばならなかった内的ドラマへの強い志向がうかがえる。「からごころ」を退け、古代のことばを求めている点で、歴史と人間と言語の一致の追求でもあったといえる。なお、その後に刊行された『本居宣長補記』(1982・新潮社)は宣長の「真暦考」などを取り上げ、小林秀雄最晩年の澄明な思索を示している。
[高橋英夫]
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江戸中期の国学者。伊勢国松坂に生まれる。旧姓は小津氏,のち先祖の姓に復し本居を称する。幼名を富之助というが,何度か改名している。生家は松坂木綿を手広くあきない,江戸にも出店をもつほどだったが,父の死をきっかけに家運がかたむき間もなく業を廃した。宣長も商人になるのをやめ,医師として身をたてるため22歳のとき京に上り,堀景山の門に入り儒を学び,堀元厚,武川幸順に就いて医を修業した。6ヵ年にわたるこの京都遊学時代に,宣長学の土台はつくられたらしい。まず,景山のもとで契沖の著作に接し,生涯わすれえない学問上の開眼を経験する。朱子学に反対し古文辞学をとなえた荻生徂徠や太宰春台らの著作から多くのことを学びとったのも,景山を介してである。朱子学派ながら景山は徂徠とも交わりがあり,また国典にも関心をよせていた。医を修めるのに儒を学ぶのは当時の習いで,宣長が景山に就いたのもそのせいだが,はからずもここで彼は学問の大道につれ出されたのである。この期の作《排蘆小船(あしわけおぶね)》はすでに,〈歌ノ本体,政治ヲタスクルタメニモアラズ,身ヲオサムル為ニモアラズ,タダ心ニ思フ事ヲイフヨリ外ナシ〉というりんりんたる一文で始まっている。蘆をわけてゆく舟という題名のとおり,それは一つの新たな破砕と前進を志向する。そして続く《紫文要領》(1763成立)では,かの〈もののあはれ〉の説がいち早く主題化され,物語の本旨は儒仏の教えなどと違い,ものに感じて動く人の心すなわち〈もののあはれ〉を知るにあることが,《源氏物語》にそくしつぶさに論じられる。それはしかし,文芸の価値の自律をたんに説こうとしたものではない。みずからも記しているが,心ひそめて《源氏物語》をくり返し読み味わうという経験にもとづいてその論はなされており,実証性の自覚がそこには存するといっていい。《排蘆小船》は《石上私淑言(いそのかみのささめごと)》(1763成立)の,《紫文要領》は《源氏物語玉の小櫛(たまのおぐし)》(1796成立)の草稿にあたるが,京都遊学を終えた宣長はすでに紛れもなく一家をなす独歩の学者であった。
33歳のとき,旅の途次松坂に泊まった賀茂真淵と初めてあい,やがて入門する。翌年《古事記伝》(1798完成)の稿を起こしているのは,真淵の志を継ごうとしたからであろう。真淵も宣長に己の学統を伝うべき弟子を見いだした。国学が一つの流派としてここに形成され,以後,古道論がようやく主軸になってゆく。流派といっても私的なものではなかったことが,《玉勝間(たまかつま)》の〈師の説になづまざる事〉という一文などによってもわかる。現に真淵の説の誤りに対する宣長の批判は手きびしい。宣長は己の学問を〈古学〉と呼び,〈すべて後世の説にかかはらず,何事も,古書によりて,その本を考へ,上代の事を,つまびらかに明らむる学問也〉(《初山踏(ういやまぶみ)》)と定義する。それは神々の代への強い信に支えられていた。彼によれば《古事記》に伝える神代の不可思議な物語はそのまま信ずべきであり,浅はかな人知で疑ったり,もっともらしい理屈をいったりするのはすべて漢意(からごころ)のさかしらにすぎない。儒教の説く〈理〉に,彼は〈事〉すなわち目に見,手にふれることのできる事実の世界を対置し,それをありのままに受納せよという。〈もののあはれ〉の論も,人の心は〈理〉や規範に必ずしも従うものでないと主張する点で,もとづくところは一つである。《直毘霊(なおびのみたま)》《馭戎慨言(ぎよじゆうがいげん)》《葛花》などに徴しても,ここには反理性的な神秘主義や独りよがりの尊王主義ときわどく接するものがある。そうかといってしかし,神道者流と同日に談じうるかというにそうでない。宣長にあって〈言(こと)〉はあくまで〈事(こと)〉であり,古典の言葉から離れ,観念とたわむれることを彼はしなかった。とりわけ《古事記伝》は三十数年間の心血を注いで成った,〈言〉の徹底的な注釈という点で他に類のないもので,古学のかぎりが尽くされている。日本語の研究史上,宣長の業績がいちじるしいのも偶然でない。《詞玉緒(ことばのたまのお)》はテニヲハをくまなく調べ,係り結びに法則があるのを発見した画期的な著作だし,《漢字三音考》その他に見られる音韻研究なども学史に大きい足跡を残している。
彼の書斎は鈴屋(すずのや)と呼ばれる。中二階につくられた茶室風の質素な四畳半の部屋で,あるじが掛け鈴を鳴らして古をしのぶよすがにしたのでこの名がある。床には〈県居大人(あがたいのうし)(真淵)の霊位〉と自書した軸をかけ,この部屋に上る階段が取り外しのきく仕組みになっていたことからすると,かなり自覚的にしきられた独自な空間であったといえよう。墓は松坂の山室山にある。おもな門人には実子の本居春庭,養子の本居大平(おおひら)をはじめ田中道麿,服部中庸,横井千秋,石塚竜麿,鈴木朖(あきら),田中大秀らがいる。伴信友と平田篤胤とはいわゆる没後の門人である。
執筆者:西郷 信綱
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(長谷川三千子)
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1730.5.7~1801.9.29
江戸中・後期の国学者。旧姓は小津。通称は春庵・中衛,号は鈴屋(すずのや)。伊勢国松坂の木綿問屋に生まれるが,家業の不振と商家に不向きな性格のため,母親の勇断で医学修業に京都に遊学する。上京中,堀景山に漢学を学ぶかたわら,景山を通じて契沖の歌学にふれて開眼した。やがて賀茂真淵と出会い,「古事記」研究を託されるとともに正式に入門。文通により「万葉集」や「宣命」についての質疑を続ける。後半生は「古事記伝」の完成に精力を傾注し,1798年(寛政10)に終業した。著書はほかに「続紀歴朝詔詞解」「大祓詞(おおはらえのことば)後釈」「馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)」「宇比山踏(ういやまぶみ)」「排蘆小船(あしわけおぶね)」「源氏物語玉の小櫛」「詞玉緒(ことばのたまのお)」。「本居宣長全集」全20巻,別巻3巻。
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…次いで対象を思想に転じる。ベルグソンを論じた《感想》(1958‐63)は未完に終わったが,《考へるヒント》(1964)で広く一般読者の支持を得,続いて晩年の代表作《本居宣長》(1977)を完成した。この大作は言葉と歴史についての小林の思索の到達点であり,日本における近代批評の記念碑でもある。…
…本居宣長の歌論書。成立年は不詳だが,宣長の京都遊学時代(22~26歳)に成ったかとされる。…
…本居宣長の歌論書。成立は1763年(宝暦13)とされるが,未完である。…
…この善因善果,悪因悪果応報の考えを転換させたのが,親鸞の悪人正機説であった。いっぽう,本居宣長が〈人の禍福などの道理にあたらぬ事あるをも,或は因果報応と説き……都合よきやう作りたる物〉(《玉くしげ》)と否定するのは,この教えの影響力の大きさを認めたからであろう。【高木 豊】
[中国]
陶潜は,〈飲酒〉詩第二首に,〈善を積めば(善き)報い有りと云ふも,夷叔は西山に在りき。…
…本居宣長の国学書。1798年(寛政10)成立。…
…《雨月物語》が刊行されたのもこの年である。86年(天明6)のころ,日ごろ不信を抱いていた伊勢人本居宣長に対して,その著書《鉗狂人(けんきようじん)》の評を中心に,その皇国絶対化の思想を激しく批判し,宣長もこれに尖鋭に応酬した。これが《呵刈葭(かかいか)》(1788成立)にまとめた,宣長・秋成論争である。…
…すなわち,奥深く隠れた存在をカミとし,そこから発現してくる力を畏怖したものとみている。本居宣長は,カミを迦微とし,〈何にまれ,尋常ならずすぐれたる徳のありて,可畏(かしこ)き物〉(《古事記伝》)とした。とくに本居説の特徴は,カミが,人格的に優れた有徳者だけに限定されず,貴いものも賤しいものもあり,善きも悪しきもあると指摘した点である。…
…真淵の《歌意考》,《にひまなび》は,歌論史上,特に重要である。 一方,宗武に仕えた荷田在満(かだのありまろ),真淵に師事した本居宣長らは《新古今和歌集》を尊重し,その立場に立っての〈歌論〉を展開した。在満の《国歌八論》,宣長の《排蘆小船(あしわけおぶね)》,《石上私淑言(いそのかみのささめごと)》等がそれである。…
…近世においても漢文の役割は依然として変わらず,江戸時代の学問の中心をなす。たとえば,《古事記伝》を著し近世国学の主流を築いた本居宣長は,《日本書紀》が正格の漢文体で書かれ漢文として必須の故事,出典を踏まえていることを〈漢意(からごころ)〉による潤色とみなし,《古事記》が同じく漢字で書かれているにもかかわらず古意を伝えていると述べている。しかし,その宣長の《古事記》を読み解いてゆく方法は,儒学者荻生徂徠がうちたてた〈古文辞学派〉の精神を背景としている,という逆説がみられる。…
…これらの古注類は考証や鑑賞面に大部のすぐれた成果を挙げてはいるものの,物語の本質論や文芸的理解となると,当時の儒仏思想の功利的な教戒観に左右されがちであったのはやむをえない。江戸時代に入ると,国学の勃興とともにいわゆる〈新注〉の時代となり,契沖の《源注拾遺》や賀茂真淵の《源氏物語新釈》がいずれも文献学的実証を志向し,ついで本居宣長の《源氏物語玉の小櫛》は,その総論に,物語の本質は〈もののあはれ〉すなわち純粋抒情にありとする画期的な論を立てて,中世の功利主義的物語観を脱却した。しかし宣長以後は幕藩体制下,儒教倫理による《源氏物語》誨淫(かいいん)説の横行によって,その研究もふるわず,わずかに萩原広道の《源氏物語評釈》の精密な読解が注目されるにすぎない。…
…注釈書。著者は本居宣長。9巻9冊。…
…中世の研究は北村季吟《八代集抄》(1679‐81成立)に総括され,近世の研究に基礎を提供した。契沖の《古今余材抄》(1692成立)は近世的な科学的研究を開始した重要な研究であり,本居宣長《古今和歌集遠鏡(とおかがみ)》(1794成立)は最初の口語訳である。香川景樹《古今和歌集正義》(1835刊)は近世の最もすぐれた《古今集》研究である。…
…〈国学〉とは本来,律令制度のもとで諸国に置かれた学校を意味する言葉であったが,上記の字義で用いられるようになったのは近世後期のことである。本居宣長の《初山踏(ういやまぶみ)》も,〈皇国の事の学をば,和学或は国学などいふならひなれども,そはいたくわろきいひざま也〉と,この呼称には否定的であったが,中島広足(なかじまひろたり)の《橿園随筆(かしぞのずいひつ)》(1854)には,〈今云国学は,我国に道なきを恥て,本居の新に建立(たて)たる学〉といった語句が見え,〈国学〉の語義がその内容のイデオロギー化と大きな関係があったことをうかがわせる。この名称が最終的に定着したのは明治時代になってからであった。…
…なお,契沖は,たとえば,仮名の〈い〉と〈ゐ〉との違いが,昔の発音の違いに対応するものだということは,いまだ知らなかった。契沖も,一部の漢語については,それらの仮名遣いを取り上げたけれども,いわゆる字音仮名遣い全体に関する研究は,おくれて,本居宣長に至って,はじめて完成された(《字音仮字用格》)。宣長は,実際に万葉仮名を韻書と対照する方法をとった。…
…本居宣長の古事記注釈書。44巻。…
…本居宣長が1779年(安永8)に著した文法書。7巻。…
…これが暦を必要とするゆえんであり,社会生活が高度になれば,共通して使用できる便利な暦が求められる。 本居宣長は有史以前の日本人の暦日についての認識を考察して《真暦考》を著した。これは今も評価され多く引用される。…
…今日いわゆる歴史的仮名遣いは,その基礎を契沖によって定められたが,契沖が問題としたのは,固有の日本語の仮名遣いについてであった。本居宣長は,この歴史的仮名遣いの問題を,漢字について吟味し,これを〈字音仮名遣〉と名づけた(国学者たちは,これを〈もじごえかなづかい〉とよませたものと思われる)。要するに,字音仮名遣いとは,漢字の日本におけるよみ方(すなわち〈訓〉に対する〈音(おん)〉)を仮名で表す場合の一つの方式で,その方式の根拠を歴史的仮名遣いの立場に求めようとするものである。…
…本居宣長の随筆。14巻。…
…日本についていえば,明治時代から,芳賀矢一,村岡典嗣によって,〈国学〉を日本文献学として規定することが提唱された。すなわち,本居宣長は言(ことば)を通して事(わざ)と意(こころ)を明らかにしようとしたが,それは古人の意識したことをそのままに認識して,古代生活の統一的意義を理解しようとするものであった。《古事記伝》は,《古事記》の文法的解釈にとどまらず,歴史,著述事情,文体などあらゆる角度から言語に密着して古道を説くものである。…
…そのなかで,《古事記》の万葉仮名は,少数の字種で意識的に制限して書いてある。その事実に着目したのが本居宣長で,《古事記伝》総論に〈仮字の事〉として万葉仮名を概説するとともに,同じ音と考えられる万葉仮名の使い分けを論じた。それを受けて,石塚竜麿(いしづかたつまろ)の《古言清濁考》《仮字遣奥山路(かなづかいおくのやまみち)》が生じ,橋本進吉に引き継がれて,橋本のいわゆる〈上代特殊仮名遣い〉の事実の発見となった(表,表(つづき)を参照されたい)。…
…他方,この語は近世,国学の興隆とともに,それまでとは異なる意味を持つようになる。とくに本居宣長は平安時代の和歌,物語を含む古代文化の中心にあるものを〈みやび〉と呼び,さらにそれを儒教,仏教とは異なる〈神の道〉すなわち神道にも通ずる,日本人の精神の基盤と考えた。【今西 祐一郎】。…
…〈もののあはれ〉の語はそうした漠然とした主観的感情をさらに客体化し,対象として捉え直したものといえよう。これを積極的な文芸理念として提唱したのは,近世中期の本居宣長である。その《紫文要領》および《源氏物語玉の小櫛》によれば,〈もののあはれ〉とは人が自然や人事の諸相に触発されて発する感動である。…
…邪馬台国九州説の中でもっとも有力な筑後国山門郡説は,新井によって先鞭がつけられたのである。ついで邪馬台国九州説を論じたのは,本居宣長であった。本居は,神功皇后が卑弥呼であるならば,魏へ〈屈辱的〉な朝貢をするはずはないという立場から,邪馬台国は大和国ではなく,〈熊襲の類〉の国であって,魏への朝貢は,女王=神功皇后の名をかたって,〈熊襲の類〉が私的に行ったものであると強調した。…
※「本居宣長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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