福田浦(読み)ふくだうら

日本歴史地名大系 「福田浦」の解説

福田浦
ふくだうら

[現在地名]長崎市福田本町

角力すもう灘に臨む湊津。天正三年(一五七五)七月一八日、上京よりの帰途島津家久は平戸を出船して九十九くじゆうく島・五島を打過ぎ、「福田」「(長)崎」を経て、一九日かば(現野母崎町)に着岸した(「島津家久上京日記」旧記雑録)。一六一四年(慶長一九年)一一月初旬、幕府のキリスト教禁令の推進に伴い長崎に集められたパードレイルマン、同宿ら宣教師や有力キリシタンが福田湊から四隻の船に乗せられてマカオマニラ、インドシナに向けて出帆(一六一五年三月二四日「ジェロニモ・ロドリゲス書簡」、アビラ・ヒロン「日本王国記」)。元和三年(一六一七)マカオ船が福田に寄港した(コックス日記)


福田浦
ふくだうら

[現在地名]丸亀市本島町福田ほんじまちようふくだ

本島の北西部に位置し、東はおお浦、南は尻浜しりはま浦、北および西は海で西沖合に烏小からすこ島があり、ひろ島と対する。北部の半島福部ふくべ山は戦国期の居城跡と伝える。山西やまにし四浦の一で、島中船方領の一浦。宝永年間(一七〇四―一一)の集落規模は長さ八〇間・幅五四間(塩飽島諸事覚)。天正一八年(一五九〇)の当浦斗代による算定検地高は六二石余ですべて畑、慶長一一年(一六〇六)の検地高六九石余(同年田畑打出し所次第「島中集旧記書」塩飽勤番所顕彰保存会蔵)。宝永元年の島中納方配分之覚(前掲諸事覚)によれば高六九石余、うち年寄宮本助之丞分引五〇石余、庄屋給分引二石、古加子一七人分引一七石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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