福田村(読み)ふくだむら

日本歴史地名大系 「福田村」の解説

福田村
ふくだむら

[現在地名]阿武町大字福田上ふくだかみ・大字福田下ふくだしも

現阿武町東端に位置し、北を弥富やどみ(現須佐町)、東を鈴野川すずのがわ(現須佐町)と接する。四方を山に囲まれ、村の北に真名板まないた(五六六メートル)、東に伊良尾いらお(六四〇・七メートル)、東南に木床きどこ(六四八・三メートル)、西南に愛宕あたご(五九五・七メートル)などの山々がそびえる。集落は村内を蛇行する大井おおい川とその支流域に散在。奥阿武宰判所属。

建武四年(一三三七)五月日付の虫追四郎左衛門尉政国申状案(益田家什書)に「福田」とみえ、石見国の南朝方三隅氏・高津氏らの軍が阿武郡に進撃し小川おがわ(現田万川町)の関所を破り、弥富・宇生賀うぶがとともに焼き払ったとある。中世には福田郷とよばれ、文和元年(一三五二)八月一三日付の大井八幡宮(現萩市)の宮座文書「御祭礼郷々社頭座敷本帳之事」に左座の五番として「福田郷」と記される。また嘉吉三年(一四四三)八月一七日付の善福寺敷地同寺領注文(「寺社証文」所収山口善福寺文書)は応永一三年(一四〇六)一一月一五日の大内盛見御判物のあることを記し、それには福田郷内小野おの栃原とちばらの名がみえる。長禄二年(一四五八)三月一一日付の先大津河原村庄屋久保平右衛門什書(「閥閲録」所収)には、村内の四〇石ほどを久保新左衛門尉行経が知行したとある。

福田村
ふくだむら

[現在地名]大和市福田・代官だいかん一―四丁目・柳橋やなぎばし二丁目・同四丁目

引地ひきじ川上流の両岸に位置し、北は下草柳しもそうやぎ村、東は上和田かみわだ村・下和田村、南は長後ちようご(現藤沢市)に接する。北部を東西に中原なかはら道が、東の村境を南北に八王子道(滝山道)が走る。村内には本蓼川ほんたでかわ(現綾瀬市)の飛地があった。

草分百姓福田九人衆の伝承があり、文政八年(一八二五)の村明細帳(大和市史四)によると、永正二年(一五〇五)には保田筑後守、同四年田辺因幡守、同一六年広田刑部助、同一七年に斎藤民部・小林大玄、大永元年(一五二一)には山下半弥・駒井半太夫、同三年広瀬藤八・市川源兵衛らがこの地に来て定住したといい、同四年には九人が集会して、福田盟約書(田辺文書・関水文書)をしたため、福田村と命名したという。

福田村
ふくだむら

[現在地名]長崎市福田本町ふくだほんまち小浦町こうらまち大浜町おおはままち小江町こえまち小江原町こえはらまち柿泊町かきどまりまち手熊町てぐままち上浦町かみうらまち

現市域の中央部西寄り、浦上淵うらかみふち村の西に位置する。北東部に鉢巻はちまき山、北部に岩屋いわや山・まい岳があり、南西に開く入江がある。地内に一里山が置かれた(慶安二年肥前国道法帳)。中世から福田村などとみえ、小浦の福田城跡および丸木まるき館跡はいずれも福田氏の用いたものという。北部の手熊に舞岳まいだけ城跡、柿泊に宮尾みやお城跡などがある。福田忠兼の長子兼親は文禄元年(一五九二)朝鮮の役に出兵、慶長三年(一五九八)帰国後に大村喜前と正式に君臣関係を結び、大村城下に移住した。次子は同じく帰国後に知行二三〇石余を与えられた(大村郷村記)。江戸時代は大村藩領の外海そとめ地区に属し、本村・中浦なかうら・小浦・小江・上浦・小江原・大浦おおうら・柿泊・手熊の九ヵ郷がある。慶長高帳では西方衆の知行。慶長一〇年の大村領内高目録に福田村とみえ、高三二五石余で、田二〇町九反余・畠一五町一反余、物成一七八石余。

福田村
ふくだむら

[現在地名]滑川町福田

滑川を挟んで伊子いこ村の北東に位置し、東は山田やまた村、西は和泉いずみ村・菅田すがだ村。久寿二年(一一五五)大蔵おおくら(現嵐山町)で殺害された源義賢の家臣八人が当地に落居して開拓したのが村の草創といい、この八名の子孫は天福年間(一二三三―三四)義賢の霊を祀るため字富士根ふじね浅間せんげん社を建立したという(風土記稿)。地名は浅間社を建立した天福の元号に由来するともいう(福田村郷土誌)。明応四年(一四九五)正月一八日銘の鰐口(真福寺蔵)に「奉寄進武州比企郡福田郷別所真福寺鰐口(中略)檀那同所四郎太郎」とあり、福田郷の四郎太郎が当地真福しんぷく寺に鰐口を寄進している。小田原衆所領役帳では他国衆の上田案独斎(朝直)の所領として比企郡「福田塩川分」四六貫二三九文があり、弘治元年(一五五五)に検地が行われている。

福田村
ふくでむら

[現在地名]福田町福田

現福田町の最南端に位置する。南は遠州灘に面し、東は太田おおた川で限られ、対岸は大島おおじま村・雁代がんじろ村。ぼうそう川が村内を東流し太田川河口で合流する。貞和三年(一三四七)四月二八日の度会繁行譲状写(櫟木文書)に「中嶋郷在家一宇、進士名、又福田垣内一所」とあり、三男十郎丸に譲られている。永禄七年(一五六四)九月二八日今川氏真は西郷信房に福田郷と福田浦の諸役免除を安堵した(今川氏真判物写「諸家文書」所収西郷木工所蔵文書)。同一二年三月二〇日、遠江国のほとんどを徳川家康に奪われた今川氏真は、掛川城に駆けつけた西郷信房に当地の替地として駿河国佐車さぐるま水森みずもり両郷(現藤枝市)を与えている(「今川氏真判物」同文書)

福田村
ふくだむら

[現在地名]佐原市福田

下総台地北部、南流する栗山くりやま川上流の谷を挟んだ北側の丘陵上に古くからの集落(福田・福田中央)があり、北は本矢作もとやはぎ村。谷の南側のきただい台深だいしんは矢作牧の開墾地で、水田は丘陵に挟まれた谷に広がる。

〔中世〕

千田ちだ庄に属し、香取社領として大禰宜大中臣氏の支配下にあった。嘉承―長承期(一一〇六―三五)のものとみられる香取社大禰宜大中臣真平譲状(香取文書、以下断りのない限り同文書)織幡おりはた村の四至として「限西福田・相根堺」とみえる。応保二年(一一六二)六月三日の大禰宜実房譲状には「処々神田」のうちに「千田庄内福田郷田壱町」とあり、実房から嫡子惟房に譲与されている。

福田村
ふくだむら

[現在地名]大内町北福田きたふくだ

いも川の下流左岸にあり、北は増川ますがわ村、西は岩谷町いわやまち村に接する。小日種こびたね岩野いわの飛川とびかわ山根やまね川端かわばたに小集落があり、併せて一村をなす。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)の「石野村」は当村の中心集落岩野をさすと思われる。寛永二年(一六二五)の物成諸役相定条々(岩谷村史資料篇)に当高一九三石九斗八升二合、納米九六石九斗九升一合、五ツ成とある。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)には村名がなく、同四年の出羽一国絵図は村名のみが記され、村高の記載がない。

福田村
ふくだむら

[現在地名]福山市芦田あしだ町福田

芦田郡の村で品治ほんじ向永谷むこうながたに村の西、有地あるじ川が芦田川に合流する谷口に位置する。字湯神谷ゆがみだに横穴式石室の残存がみられ、福田小学校校庭東側小山にある土壙墓から人骨が出土、下割石の掛平しもわりいしのかけひら山南尾根にも古墳があった。また宇佐うさ地区から師楽式土器が採集され、古墳時代に製塩も行われていたことが判明した。

中世には福田庄として推移、地頭職は杉原氏が有し、南北朝以降利鎌山とがまやま城に拠って当地を領したと伝え、戦国時代有地隆信・元盛に攻められ落城、有地氏の支配下に入ったという。有地川・芦田川合流点近くの小丘上に宿茂塚すくもづかと称する山城跡があるが、有地隆信の弟有地玄蕃が東方の押えとして構えた出城跡と伝える。

福田村
ふくだむら

[現在地名]神林村福田

あら川の右岸にあり、南の対岸は金屋かなや(現荒川町)、東は牛屋うしや村、西は塩谷しおや町、北は長松ながまつ村に接する。正保国絵図に村名がみえる。元禄郷帳には「古者袋村与申候」とある。延慶二年(一三〇九)の尼如通譲状案写(「古案記録草案」所収文書)にみえる小泉こいずみ色部いろべ条内の「ふくやのしんほ」は当地と新保しんぼ一帯をさすか。同所は色部惣領三郎左衛門入道(長綱か)より如通へ譲られた地で、如通は在家二宇・田四反を孫の七郎なかくにへ譲った。正中二年(一三二五)には同所のうち「ほうきやふつくり六百かり、まつかけつくり四百かり」「けんへい六かやしきそへ」が如通から二郎三郎へ譲られている(同年一〇月一七日「尼如通譲状案写」同文書)

福田村
ふくだむら

[現在地名]東区安芸あき町福田

馬木うまき村の東北にあり、高宮たかみや郡に属した。北に木の宗きのむね(四一三・一メートル)、南に三本木さんぼんぎ(四八六・三メートル)鷹の条たかのじよう(四三八・二メートル)があり、その山間に発する二本の小河川が当村で合して北東流、小河原おがわら(現安佐北区)に注ぐ。深川ふかわ温品ぬくしな往還が小河原村から当村を経て馬木村に至り、西の奴田ぬたヶ峠を越えると中深川なかふかわ(現安佐北区)に通じる。山間の谷川に沿った棚田が耕地の大半を占める。戦国時代には深川郷の一地域になっていたと考えられる(久都内文書)

福田村
ふくだむら

[現在地名]吉井町福田

周匝すさい村の南にあり、北東を滝山たきやま川、南東を吉井川、南を高田たかだ川が流れる。この三川に挟まれ向山の麓に平地が開ける。川沿いを倉敷往来・片上かたかみ往来が通る。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)に載る楢津ならづ村の貼紙に「只今福田村と申候」とある。楢津村は慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の楢津保に村名がみえ、寛永備前国絵図では高六六九石余。正保郷帳には枝村として小枝こえだが載る。「備前記」に福田村とあり、「備陽記」によれば枝村は小枝・門前もんぜん

福田村
ふくだむら

[現在地名]鳴瀬町西福田にしふくだ

旭山あさひやま丘陵の西端、鳴瀬川左岸にあり、北は二郷にごう(現遠田郡南郷町)、東は大窪おおくぼ(現矢本町)。比較的平地が多く、面積も広い。名の由来は「深谷風土記」(「鳴瀬町誌」所収)によると、寛永期(一六二四―四四)の「御竿答之節郡中打留之御村ニ付祝候訳ニも候哉」とあり、検地終了地であったことによったと伝える。正保郷帳では「深谷福田村」とみえ、田三九貫七五文・畑二貫九七八文で、水損と注され、ほかに新田一八貫二六九文。

福田村
ふくだむら

[現在地名]米沢市福田町一―二丁目・吾妻町あづまちよう太田町おおたまち二―五丁目・本町ほんちよう一丁目・泉町いずみまち一丁目・大町おおまち四丁目・桜木町さくらぎちよう相生町あいおいちよう通町とおりまち八丁目・ひがし二丁目

米沢城下南東、下級家臣屋敷町の福田町の南東に位置し、まつ川西岸の平坦地に立地。天文七年(一五三八)の段銭古帳には上長井庄のうちとして「ふく田」がみえ、段銭は一七貫九〇〇文。同一三年一〇月二六日、伊達稙宗は小簗川日双(宗朝)に上長井庄福田郷顕松裁配分を替地として与えている(伊達正統世次考)。同二二年の晴宗公采地下賜録によると、勾当がいつミの目方より買った福田のうち「ひたかうやさいけ」「とうきんさいけ」「きり田千三百かり」「さひかくはたけ」を安堵され、「飯淵しほち」が中野常陸分(勾当分を除く残り全部)を返されている。

福田村
ふくだむら

[現在地名]二戸市福田

浄法寺じようぼうじ(現安比川)を挟んで沢口さわぐち村と対する。たて集落の北西に福田館跡がある。館主は福田氏。北西部は安比あつぴ川に面した急崖、東部は秋葉神社の境内で一二館じゆうにたてとよばれ、南西部は「からめ」とよばれる台地上に立地し、館跡全体は「おおじろ」と称される。系胤譜考(盛岡市中央公民館蔵)によれば福田氏は葛巻工藤氏の分流。慶長(一五九六―一六一五)頃に館主だったと思われる福田治部については、慶長六年の岩崎御出陣人数定(聞老遺事)に「五百石、福田治部、比下十五人」とある。

福田村
ふくだむら

[現在地名]堺市福田

きた村の北、泉北丘陵上に開かれた新田村。村の東側を西高野街道が通る。大鳥郡に属し、陶器とうき庄一〇ヵ村の一。苻久田ふくだ村とも書いた。当村付近はかつて「大野の芝」とも総称され、江戸時代の「若林農書」には「今諸国にまゝある荒野これなり、所謂和泉大野・美濃鵜沼原・伊勢豊久野(中略)武蔵野・下那須原等の類たり、これも人力の及ばざる所にして不能といふ也」とあり、諸国の荒蕪地の筆頭に数えられている。陶器藩主小出有棟が正保元年(一六四四)に開墾に着手、同三年に完了し福田村と命名した。

福田村
ふくだむら

[現在地名]新地町福田

東流する三滝みたき川の流域に位置し、南は真弓まゆみ村・谷地小屋やちごや村。西は伊具いぐ(現宮城県)境の五社ごしや(標高三八三メートル)地蔵じぞう(同三四八メートル)の中間に位置する福田峠を越え、同郡伊手いで(現宮城県丸森町)に至る。浜街道は谷地小屋村から当村東部を通り、埒木崎らちきざき村木崎に至る。天文七年(一五三八)の段銭古帳に宇多うだ庄のうちとして「ふく田」とみえ、段銭一九貫文とある。同二二年の晴宗公采地下賜録によると、「うたのふくたの村」のうちの多数の在家および山川惣領職などが御代田伯耆に安堵されている。

福田村
ふくだむら

[現在地名]大河原町福田

小山田おやまだ村の東にあり、東方はやや開けた低地、残る三面は丘陵。南東は大河原村、北は沼辺ぬまべ(現村田町)。天文七年(一五三八)の段銭古帳の「柴田」のうちに「仁貫文 ふく田」とみえる。同二二年集成の晴宗公采地下賜録によれば、それまで国分太郎左衛門が知行していた「ふくた」の郷は残らず沼辺城主沼辺玄蕃に与えられた。

福田村
ふくだむら

[現在地名]諫早市福田町

目代めしろ村の東、諫早市中の北に位置する。中世は伊佐早いさはや庄のうちで、観応二年(一三五一)一二月二五日の足利直冬宛行状写(松浦文書類)に「伊佐早庄内福田村」とみえ、当村一〇町(立石孫三郎跡)などを勲功の賞として松浦相知築地孫十郎正に与えている。これは西多久小次郎・納所三郎跡の替地であるが、今川直貞のもとに馳せ参じたときの勲功であろう。当地の館屋敷たちやしき一帯に城田じようだ射場の辻いばのつじなどの地名が残り、また室町期の五輪塔・宝篋印塔が散在している。永禄六年(一五六三)六月、「高来郡福田村」の御牧市助が伊勢参宮に赴いている(「肥前国藤津郡彼杵郡高来郡旦那証文」宮後三頭太夫文書)

福田村
ふくだむら

[現在地名]那珂町福田

棚倉たなぐら街道上町うわまち通の西側に位置し、東は菅谷すがや村。康安二年(一三六二)正月七日の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に「久慈西福田村」とみえる。明応年間(一四九二―一五〇一)の「当乱相違地」(秋田藩採集文書)には「福田」の名がみえるが、これは江戸通雅が自らの力で佐竹領を押取った所領である。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)には「ふく田」とある。

福田村
ふくたむら

[現在地名]大垣市福田町・熊野町くまのちよう

杭瀬くいせ川右岸、静里しずさと輪中の北東部に位置し、西は笠毛かさけ村。織田信長・豊臣秀吉に仕えた那波正澄・正信父子の居城福田城が当地の西にあったといわれ、天正一四年(一五八六)九月二一日に那波和泉守は濃州西方に一千九八一貫六〇〇文を扶助されている(「豊臣秀吉知行充行朱印状」名和文書)。江戸時代初期は笠毛村の内に属し、のち分村。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領、村高八四七石余。

福田村
ふくだむら

[現在地名]岡山市福田

福成ふくなり村の西にあり、北は新福しんぷく村、南は児島こじま湾に面する。寛永八年(一六三一)新開の新田で(「池田家履歴略記」池田家文庫)、貞享年中(一六八四―八八)本村となった(備陽記)。寛永備前国絵図では福田村新田とみえ、元禄郷帳(池田家文庫)では高一千石余。「備陽記」によると田畑六四町三反余、家数三九・人数三〇五。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高三四七石余、蔵入。田高一千一石余・畑高二五石余、家数九〇、うち七五軒は城下二日市ふつかいち町日蓮宗妙勝みようしよう寺、残りは浜野はまの村同宗妙法みようほう(六軒)米倉よねぐら村臨済宗常慶じようけい(六軒)七日市なのかいち村真言宗最城さいじよう(二軒)上寺うえでら(現邑久郡邑久町)天台宗円乗えんじよう(一軒)の檀家。

福田村
ふくだむら

[現在地名]阿見町福田

西は小池こいけ村、北は上長かみなが村。中央低地を乙戸おつと川が南東へ流れる。中世は信太しだ庄に属し、元徳元年(一三二九)一一月日の地頭代良円請文(東寺古文零聚)に「常陸国信太上条内五ケ郷大村吉原惣領分福田竹岡荒川庶子分京進絹代」とある。永禄期(一五五八―七〇)の関東幕注文(上杉家文書)に載る福田左京亮は木田余きだまり(現土浦市)城主信太氏と同紋なので、八条院領時代荘司となり土着した信太氏の一族であろう。

福田村
ふくだむら

[現在地名]鹿島町福田

内浦街道に沿う。小金森こがねもり村の北東に位置し、高畠たかばたけ村と入組む。南東端の原山はらやま(標高三九四メートル)を越えると越中国射水いみず懸札かけふだ(現富山県氷見市)。天正八年(一五八〇)から長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高二九二石余。寛文一一年(一六七一)の鹿島半郡高免付帳(長文書)では高三三八石、免六ツ四厘。同年加賀藩直轄領となり、延宝七年(一六七九)の村御印(福田区有文書)によると高四一六石、免四ツ六歩、小物成は山役三三匁・苦竹役一匁・鳥役二匁・油役八匁・室役一〇匁。

福田村
ふくたむら

[現在地名]上田市大字福田

上田市南西部を流れる(産川の支流)の下流の平坦部から北部の丘陵にかけて所在する集落。東は神畑かばたけ、西は吉田よしだ、北は築地ついじ、南は保野ほやの村々に接する。塩田平しおだだいらの中央を流れるさん川が集落の東部で湯川と合流するため、肥沃な耕地が多い。

「和名抄」の小県郡の中の福田郷の本郷に比定される。中世に入って小泉こいずみ庄に属した。天文二二年(一五五三)八月、武田晴信(信玄)が塩田城を陥れて東信濃を手中に収め、自己の勢力下にあった土豪浦野氏に福田郷百貫を安堵した(高白斎記)。天正六年(一五七八)上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)「二之御柱」の項に「福田之郷弐貫文」と記され、天正七年の同帳にも同様な記事がある。

福田村
ふくだむら

[現在地名]福地村福田

八戸はちのへ城下(現八戸市)の南西、馬淵まべち川の中流右岸の河岸段丘に位置する。東は埖渡ごみわたり村、西は森越もりこし村、南は下名久井しもなくい(ともに現名川町)、北は馬淵川を隔てて苫米地とまべち村に接する。永禄一〇年(一五六七)と推定される九月一六日付東政勝書状案(遠野南部文書)に「福田之事ハ一筋ニ三戸之奉公被仕候」とある。天正(一五七三―九二)の頃福田館に福田治部が居館し、当地を支配していた。

福田村
ふくだむら

[現在地名]長岡市福田町・北山きたやま二丁目・下山しもやま三丁目・長峰ながみね町・新産しんさん四丁目

西山丘陵が信濃川左岸平野に接する麓に開かれた集落。山沿いの道を北上すれば上除かみのぞき村・関原せきはら新田方面へ、南は富岡とみおか村。才津さいづ村の枝郷。おき藤橋ふじはしの二字からなり、沖は才津村に混入し、藤橋は離れて山の手にある。承応三年(一六五四)の検地帳(長岡の歴史)には田三四町六反余・高四七二石四斗余、畑九町五反余・高五〇石七斗余。元禄郷帳では高四九九石四斗余。安政五年(一八五八)の調査(同書)では家数六一。俗に御林おはやしと称する長岡藩領の松林反別一〇〇町歩があり、盗伐を防ぐための監視として山横目なる役人を設けていた。

福田村
ふくたむら

[現在地名]氷上町福田

三方を山に囲まれ南に谷が開ける。山を隔てて北は佐野さの村、東は大新屋おおにや(現柏原町)、南は草部くさべ(現山南町)。寛永一〇年(一六三三)僧仙教が柏原藩に願出て朝坂あさか内山うちやまの開発を始め、同一五年朝坂村からの出戸により朝坂村の枝村内山村となる。慶安三年(一六五〇)から幕府領、万治元年(一六五八)草部村の枝村福田村と合併して福田村となる(沼貫村誌)。延宝六年(一六七八)の検地帳によると下田九反余・下々田九反余、上畑九畝余・中畑五〇反余・下畑五七反余・下々畑一三四反余・山畑七反余、屋敷一〇反余(沼貫村誌)。天和二年(一六八二)旗本杉浦領となり(「寛政重修諸家譜」など)、元禄郷帳では高二七石余。

福田村
ふくだむら

[現在地名]吉海町福田

大島の中央部にある。西は津倉つくら湾に面し、北は宮窪みやのくぼ(現宮窪町)、東は仁江にえ村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に「福田村 日損所、野山有、松林有」とみえ、村高は二三五石八斗一升である。寛永一三年(一六三六)の福田村検地帳には古新田一町九反八畝一三歩となっている。貞享元年(一六八四)の田畑面積は、田一五町二反、畑八町七反、新田四町五反(今治藩御改革領内調書)であったが、遠浅の福田浜は元禄五年(一六九二)の六反歩をはじめ順次埋め立てられ、東部の山麓の開発も進んで、明治一三年(一八八〇)では田三三町八反、畑三八町五反と増加している(伊予国越智郡地誌)

北部には自然の良港をもち、幕末頃から海運が盛んで、明治初期には商船二六隻をもっていた。

福田村
ふくだむら

[現在地名]川越市福田

下寺山しもてらやま村の北、入間いるま川右岸低平地に立地。同川は当村地先で屈曲し、北流から東流に転じる。同川を隔てて西は高麗こま平塚ひらつか新田、北は比企郡下伊草しもいぐさ村・角泉かくせん(現川島町)。小田原衆所領役帳に江戸衆の川尻某の所領として「四拾六貫七百九十三文 河越卅三郷福田」とみえる。「風土記稿」によれば小名櫓下は戦国期松山城から河越城攻めのために櫓を築いた跡地と伝える。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高二一五石余・畑高一一七石余、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三七五石余、反別田二一町九反余・畑二二町余、ほかに開発分高五七石余(反別田三町三反余・畑三町四反)

福田村
ふくたむら

[現在地名]立山町福田

上段うわだん段丘のほぼ中央、日中上野につちゆううわの村の南に位置。東は下白岩しもしらいわ村、西は上中かみなか村。伝承では町袋まちぶくろ村の九平が開村したとも、文禄年間(一五九二―九六)の開村とも伝えるが、あきしま用水開通後に米道よねみち村の枝村として立村したらしい(立山町史)。明暦二年(一六五六)の村御印留に村名がみえ、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三五八石、免二ツ八歩。明暦二年から万治二年(一六五九)までの新田高六九石(三箇国高物成帳)

福田村
ふくだむら

[現在地名]笠間市福田

涸沼ひぬま川の沿岸にあり、北は大橋おおはし村。中世は笠間氏の支配下にあり、字寄居よりいに館があったと伝えられる。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高一〇八八・九九一石となり、万治三年(一六六〇)・延宝四年(一六七六)の新開検地で合せて三〇石余を打出す。

福田村
ふくだむら

[現在地名]山陽町大字福田

厚狭郡の西端にある山間部の農村。土生はぶ浦に流れる前場まえば川の上流にあり、東の山野井やまのい村から北の吉田よしだ(現下関市)に抜ける山陽道が村の中央部を通る。南と西は土生浦に接する。近世、福田村は長府藩領と萩藩領が混在しており、とくに小村の長近森・向原は両藩に細分されている(地下上申)。萩藩領は吉田宰判に属する。

慶長五年(一六〇〇)の検地帳では埴生村、同一五年の検地帳では埴生庄のなかで一括記載されていると考えられる。

福田村
ふくだむら

[現在地名]内海町福田

近世、福田郷の親村。東は播磨灘に面し、中央を伊豆いず川・森庄もりしよう川が西流して肥沃な水田地帯を形成する。伊豆川上流の台地から弥生式土器片などが出土した。小村にもかかわらず、はま上庄かみしよう尾崎おさきの三地域に分れ、福田郷庄屋のもと、上庄・尾崎には年寄各一人・組頭各二人が置かれた。宝暦明細帳では高一二二石余・反別一四町九反余(うち田七町八反余)、家数二二八、牛一八、船数五〇(一〇〇―五石積)。播磨灘に面する福田湾沖は好漁場で、近世には鰯網・鯖網が多く、近代に入っては鯛網・鰆網で賑う。文久二年(一八六二)五月、寺田屋事件に関係して捕縛され、鹿児島に護送中の公家中山家諸太夫田中綏猷・嘉猷父子は船中で惨殺され、その遺骸が当村遠干とおひ浜に漂着、倉敷代官所下役検視ののち、この地に仮埋葬された。

福田村
ふくだむら

[現在地名]美里町福田

貴志きし川とその支流真国まくに川との合流点の東、貴志川流域に位置し、北に愛宕あたご山を背負い耕地がやや開ける。貴志川沿いには高野街道が通る。平安末期以降は神野こうの庄に属し、その西端に位置した。元亀二年(一五七一)長宗我部氏に敗れた河野氏が伊予から当地に来住、三ヵ所に城を構えたと伝えるが、河野氏は土着の武士ともいわれる。

福田村
ふくだむら

[現在地名]津山市福田

現津山市の南西端に位置し、中央をさら川が流れる。北・西は高尾たかお村、南は越尾こよお(現久米郡中央町)。元禄一四年(一七〇一)から宝永六年(一七〇九)まで甲斐甲府藩徳川綱豊領、その後幕府領となり、延享二年(一七四五)から宝暦一三年(一七六三)まで播磨国三日月藩預、文政元年(一八一八)から播磨国龍野藩預、慶応三年(一八六七)鶴田藩領となる(美作国郷村支配記)。正保郷帳では田方一一〇石・畑方七五石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では三五八石余、うち改出高一二八石余・開高四五石余。

福田村
ふくだむら

[現在地名]東村福田

村の南は新利根川沿岸の低地で、北部は台地。東は幸田こうだ村。中世は東条とうじよう庄に属し、江戸時代は天領で、元禄郷帳の村高は六四〇石余、幕末は六七三石余(各村旧高簿)。「新編常陸国誌」は根岸ねぎし大峰おおみね横須賀よこすか久保くぼ間々田ままだの小名を載せる。

久保台くぼだいに延宝元年(一六七三)創建と伝える鹿島神社があり、境内に寛政一三年(一八〇一)創建の稲荷大明神などがある。八幡前はちまんまえに「仲根の八幡様」とよばれる八幡神社、根岸台ねぎしだいに「根岸の八幡様」とよばれる八幡神社があり、根岸の八幡神社には「足尾山様」と称する円筒形の古石がある。

福田村
ふくだむら

[現在地名]弘前市福田

弘前城下の東にあり、北は境関さかいぜき村、西は高崎たかさき村、東はふく村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀ひらか郡の新田に村高七二〇・五一石とある。寛文四年(一六六四)の高辻帳では村高五二〇石。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高五二六・九八一石、うち田方四九二・六九七石、畑方三四・二八四石。田位は上々田から下々田まで、斗代は上々田が一・四石と高い。村内に寺社はなく、漆木は八九本。屋敷地は郷蔵屋敷を含んで五・八石、屋敷持は一四名と比較的少なく、隣接する他村落や弘前城下からの入作者があったと思われる。

福田村
ふくだむら

[現在地名]仙北町福田

川口かわぐち川下流右岸に位置し、東は横堀よこぼり村、西は高関上郷たかぜきかみごう村(現大曲おおまがり市)と接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に不鮮明ながら福田村新田と推定される記載がある。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)には当高で本田並二六七石余、新田三二石余、合計二九九石六斗七合とある。同一五年の「六郡郡邑記」によれば、家数は一三軒、支郷になか村六軒、後谷地村一〇軒、落合おちあい村一軒、喜右衛門村四軒があった。

福田村
ふくだむら

[現在地名]温泉津町井田いだ大字福田

殿との村の南に位置する。中世には大家おおえ西にし郷に含まれた。永享五年(一四三三)一〇月五日の周布観心譲状(閥閲録)に「大家庄西郷内井尻・福田」とみえ、周布すふ郷地頭職などとともに観心(兼仲)が孫の賀幸丸(和兼)に譲渡している。周布和兼は福田を含むこれら所領を長禄三年(一四五九)六月一一日に嫡子千寿丸(元兼)に譲渡した(「周布和兼譲状」同書)。しかし延徳二年(一四九〇)一一月一六日に足利義尹から安堵された周布元兼所領のうちには福田村がみえないので、これ以前に周布氏の手を離れたと推測される(「足利義尹知行安堵状」同書)

福田村
ふくだむら

[現在地名]河北町東福田ひがしふくだ

北境きたざかい村の北東方、北上川の東側に位置し、上品じようぼん(四六六・八メートル)の西麓に集落が点在する。柳津やないづ(現本吉郡津山町)へ至る道が通る。慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記(伊達家文書)の葛西中に「福田の内まきす ふね仁そう」とある。桃生郡南方大肝入支配下の村で、正保郷帳では田三〇貫四九三文・畑三貫一八九文で水損・旱損と注され、ほかに新田一一貫五七三文。「封内風土記」では戸数八三、年未詳の福田村風土記(「河北町誌」所収)によると、高七八貫五〇五文、家数四八、文政一一年(一八二八)は同高、人頭五七人、人数三五一(「桃生南北本吉南方風土記」及川徳松家文書)、安政五年(一八五八)の人頭四八人、人数二六七(福田村戸口書上「河北町誌」所収)

福田村
ふくだむら

[現在地名]豊岡市福田

中陰なかかげ村・下陰村の西に位置し、円山まるやま川の支流奈佐なさ川が流れる。中世の紀州熊野山領福田庄の遺称地。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文に「福田庄 二拾弐町七反三百分」とみえ、「熊野山領」「下司兼公文宮井太郎兵衛尉盛長 御家人」の注記があり、庄田の内訳は神田六反小、下司公文給各一町、定田二〇町一反一八〇歩である。下司兼公文の宮井盛長は樋爪ひづめ宮井みやいを本拠とすると思われる国御家人で、樋爪庄および樋爪国領の公文を兼ねる。福田に鎮座する式内社久麻くま神社の神号は俗に熊野権現とよばれ、その神宮寺で江戸時代に曹洞宗寺院となった新宮しんぐう寺の山号を熊野山と称することなどは、熊野山領庄園の名残であろう。

福田村
ふくだむら

[現在地名]南国市福船ふくぶね

金地かなじ村の東に位置し、香美郡に属した。岩村いわむら郷に含まれ、天正一六年(一五八八)の岩村郷地検帳に小村として福田村がみえる。そのうちの小名に「福田とゐの前」「舟渡」が記される。元禄地払帳によると総地高四〇二石余、うち本田高三九五石余・新田高六石余。本田は蔵入地一〇石余、残りは東野権右衛門(二八五石余)・上田源左衛門(一〇〇石)の知行。新田はすべて貢物地。寛保郷帳では戸数三七、人数一六四、馬一八。

前記地検帳に「舟渡」が記されるように、古くは物部ものべ川が村の東を通っていたようで、対岸東深淵ひがしふかぶち(現香美郡野市町)との間に渡船場があり、東西の往還が通っていたという。

福田村
ふくだむら

[現在地名]甲奴町福田

北隣の有田ありだ村より南流して上下じようげ川に合流する友森とももり(福田川ともいう)流域に集落が点在し、東は有福ありふく(現上下町)、南は本郷ほんごう村、西南は梶田かじた村に接する。伝えによれば古くは有福庄の地で、のちに有福の名を分けて有田村と福田村が成立したとされる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では二四〇石余であるが、元禄一三年(一七〇〇)備前検地では三一〇石余に増加、以後の変化は少ない。

福田村
ふくだむら

[現在地名]備前市福田

畠田はたけだ村の東にある。当地天神宮所蔵天正一二年(一五八四)四月在銘の鬼瓦に「香登 福田村」とみえる。慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳には「香登内福田村」とあり、物成一二一石余・夫米七石余、新田として七石余が載る。寛永五年(一六二八)の検地では朱印高二四六石余のほか改出高一二二石余(貞享元年「和気郡高目録」池田家文庫)。享保六年(一七二一)には田畠二七町八反余、家数六〇・人数三一六、池八ヵ所(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高四七七石余、虫明むしあげ(現邑久郡邑久町)の家老伊木豊後給地。

福田村
ふくだむら

[現在地名]福崎町福田

馬田うまだ村の西に位置し、七種なぐさ川東方に広がる河岸段丘上に立地する。神西じんさい郡に属する。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方四〇三石余・畑方一三一石余、「芝山有」と注記される。寛延二年(一七四九)には高六〇九石余、反別は三五町八反余、家数七二(うち水呑三〇)・人数四五〇、牛三三(「村明細帳写」福田区有文書)。天保郷帳では高七一三石余。寛延二年の姫路藩領一揆では当村百姓四郎太夫倅文左衛門は急度叱の刑に処せられている(「寛延一揆罪科人仕置書」九州大学法学部蔵)

福田村
ふくだむら

[現在地名]北茨城市関本せきもと町福田

中央を里根さとね川が東流して川沿いに平地が開け、南と北は山である。東は関本中せきもとなか村で、平方ひらかた街道が川に並行する。「新編常陸国誌」に「旧神岡村ノ内ナリ、正保、元禄ノ間分レテ一村トナル」とあるが、承応二年(一六五三)の検地帳(北茨城市役所蔵)に「常州多賀郡福田村畑水帳」とみえ、すでに分村している。元禄(一六八八―一七〇四)以降、天領・旗本領の五給支配となった。「各村旧高簿」によれば、天領は二六七石余で四旗本領は各一三三石余である。

福田村
ふくだむら

[現在地名]伊万里市黒川町くろがわちよう福田

黒川村の北、標高一〇〇メートル台の丘陵地の中央部が伊万里湾に面して東西に延びる入江であったのが干拓された。正保絵図に村名がみえる。

文化年中記録によれば「畝数七町六段三畝三歩半」とある。鰐口わにぐち新田(旧)五段(寛保以前)米島こめじま新田一町(天保以前)浦方うらがた新田二町七段(文化年間か)小月おづき新田(旧)四町(天保以前)大谷おおたに新田一町(天保の頃)、前新田三町(明治以前)、鰐口新田(新)二町六段三畝(明治以前)、小月新田(新)一町(明治以前)授産社搦じゆさんしやからみ一一町八畝(明治一九年五月竣工)の干拓が造成され、田一三町三段、畑六町と文化年中(一八〇四―一八)の畝数の二倍に達した。

福田村
ふくだむら

[現在地名]本荘市内越うてつ 福山ふくやま

いも川東岸の平野部で、南は横山よこやま村、北に畑谷はたや村がある。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に内越郷のうちに村名がみえる。正保三年(一六四六)の出羽国由利郡之内郷村高帳(秋田県庁蔵)に一八八石二斗一升一合とあり、その貼紙によればうち二五石余が慶安二年(一六四九)の新田高とある。正保四年の出羽一国絵図には一七一石とある。元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳では八一石一斗七升五合と減少する。

福田村
ふくだむら

[現在地名]三和町福田

現三和町北西端に位置する、周囲を山に囲まれた小村で、西北は上川立かみかわたち(現三次市)。村域東境を板木いたき川が流れる。元和五年(一六一九)の備後国知行帳に一五一石九斗二升七合とあり、三次藩の行った明暦二年(一六五六)の検地では一三八石余(畝一六町余)と減っており、内訳は田方一二四石余(畝一三町余)・畠方一三石余(畝二町余)・屋敷一石余(畝七畝余)となっている(「備後国三吉郡福田村地平帖」戸田家文書)

福田村
ふくだむら

[現在地名]大任町大行事だいぎようじ

彦山川の左岸に位置し、北東は元松もとまつ村、北は白土しらつち(現在の西白土)。元和八年人畜改帳では「福間村」とみえ、高二三二石余、家数三〇・人数五六(うち百姓四・名子九)、牛八・馬五。正保国絵図でも「福間」と記されるが、元禄国絵図では福田村となっている。延享四年(一七四七)の福田村人畜改帳(添田手永中村家文書)では竈数一七、家数一八・人数八二、牛一〇・馬四。同年の銀小物成帳(同文書)に石間歩札代三匁(札数一枚)とあり、すでに石炭の採掘が行われていた。

福田村
ふくだむら

[現在地名]新庄市福田

新田につた川・升形ますがた川の形成した沖積地上にあり、東は仁間にけん村、西は升形村枝郷の福宮ふくみやに続く。元和八年(一六二二)の御前帳写では高四七九石余。寛文四年(一六六四)には高四九三石余、うち新田一三石余、福田原という松山に新庄藩の仕置場がある(新田本村鑑)。明和三年(一七六六)には高四五六石余、うち田方三六九石余、反別五一町四反余、うち田方三六町八反余(吉村本村鑑)

福田村
ふくだむら

[現在地名]明石市大久保町福田おおくぼちようふくだ

赤根あかね川中流の左岸に位置した村。山陽道が通り、南は八木やぎ村、南西は東江井ひがしえい村。野々上組に所属。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田高二七九石余・畑高七〇石余。天保郷帳では高三七五石余。村の規模は東西一町三〇間・南北一町、往還道は一町。郷蔵一・池四、村の北に長さ一六間・幅一間の土手、南に長さ一〇一間・幅一間の土手、石橋二・土橋三。産土神は承応三年(一六五四)創建の住吉大明神(明石記)

福田村
ふくだむら

獺越おそごえ村ともよばれ、現大森おおもり町北部に位置し、北東部を久利くり佐摩さま、北西部を仁摩にま大国おおぐにに接していたと考えられる。延慶元年(一三〇八)一二月二四日の六波羅下知状(益田家文書)に「獺越本名福田村」とみえ、同村の田畠在家をめぐって佐摩村地頭昇蓮と久利郷地頭清原氏女(妙阿)が争っていたが、妙阿が福田田五反と大坪田二反の計七反を昇蓮に与えること、ただしそのうち一反半にかかる公田分本所年貢を妙阿方に渡すことで、徳治二年(一三〇七)一二月八日に和解が成立した。

福田村
ふくだむら

[現在地名]倉敷市福田町福田

浦田うらた村の南に位置。南は瀬戸内海に面したが、のち磯辺に福田古新田が成立。清田きよた八幡神社の元和元年(一六一五)の上葺再興棟札に村名がみえる。正保郷帳では高二九二石余。享保六年(一七二一)の蔵入并知行高村分帳では池田豊次郎(天城池田)の給地。同年の田畠二九町五反余、池一、家数七一・人数四八三(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高二九二石余、直高四三三石余で池田和泉の給地、田一九町三反余・畑九町六反余、池一〇、樋一三、井戸一二、橋四、家数一六三・人数九二六、寺一軒(般若寺)、大工・桶屋各四軒、紺屋二軒、張物師一軒。

福田村
ふくだむら

[現在地名]気高町勝見かちみ

村の西,勝見谷(浜村川流域)逢坂おうさか(永江川流域)の間の小さい谷の西麓に位置する。拝領高は九〇石余、本免は五ツ一分。「因幡志」によると家数三。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一〇六石余、竈数二。万延二年(一八六一)異国船渡来の折に浜村はまむら御蔵の蔵米を湯村へ移すための駆付民夫一人の徴用が割当てられた(在方諸事控)

福田村
ふくだむら

[現在地名]水海道市福二ふくじ

小貝こかい川西岸に所在。南は福崎ふくざき村。小貝川に並行して筑波街道が走る。江戸初期は天領で、寛永一一年(一六三四)の下総国豊田庄福田村屋敷御検地帳(水海道市役所所蔵文書)によれば関東郡代伊奈忠治の手代役人宇多川喜兵衛などとともに二四名の百姓が帳付され、屋敷地合計六反二畝。元禄一〇年(一六九七)から旗本渡辺氏の知行地となる。安政二年(一八五五)の村書上(草間常四郎文書)によれば江戸からの道程一五里、家数二六・人口一六八、馬一〇。

福田村
ふくだむら

[現在地名]名和町大塚おおつか

大塚村の南西、阿弥陀あみだ川下流右岸に位置する。古くは羽畑はばた村と称されたが、明和八年(一七七一)押平おしなら大明神修復時の棟札には福田村とみえており、改称はこの頃と考えられる。拝領高八二石余、本免五ツ一歩。竹運上銀九匁が課せられていた(藩史)

福田村
ふくだむら

[現在地名]貝塚市福田

新井にい村西隣の南郡の村。天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の紀州根来・雑賀攻めによって和泉国は秀吉の支配下に置かれ、検地も行われたが、当市域では天正検地帳は現存していない。ただし福田村には当時のものと思われる指出帳(福原家文書)が残されている。これは名寄帳の形式で、八石―二四石の五人の名請人の所持田畑を記した後、御坊(貝塚寺内)・にい(新井村)など他村の肩書をもつ者、しをや・銭屋など職業の肩書をもつ者の所持田畑を記している。これらはいずれも高一斗余―二石余の小規模なもので、当村域境界部分かと思われ、「御坊まへ」「かいつか(海塚)まへ」の小字の土地が多い。

福田村
ふくだむら

[現在地名]水原町福田

東は野地城やちじよう村、南は小境新こざかいしん村。堀越ほりこし村の新田で、古くは八幡はちまん新田と称したと伝える(白川風土記)。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では堀越組に属した。貞享元年(一六八四)郷村高辻帳に高一九二石五斗余とあり、元禄郷帳には堀越村枝郷と記される。

福田村
ふくだむら

[現在地名]上越市福田・福田町

安江やすえ村の東、保倉ほくら川の左岸地帯に位置する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所宇津郷藤左衛門扱福田村 中」とみえ、本納四四石五斗・縄高一二六石三斗一合・家一〇軒・三二人。正保国絵図では一五二石余。蓮浄寺本天和三年郷帳では二五三石三斗余、うち野高四石七斗二升八合、ほかに新田分二四石六斗余。旧高旧領取調帳では二二五石二斗余が高田藩預所、五六石二斗余は伊勢除地。

福田村
ふくだむら

[現在地名]落合町福田

旭川西岸平野部に位置し、対岸は野川のがわ村、西隣高屋たかや村より東流してきた当摩たいま川が当地で旭川に注ぐ。北はなか村。正保郷帳では田高一一五石余・畑高九石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によると村位は下、改出高八六石余・開高四石余。

福田村
ふくだむら

[現在地名]合川町福田

北流する阿仁あに川下流域左岸の山麓に位置し、小阿仁こあに川との合流点に近い。享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)によれば、享保四年に新しく福田村を藩の絵図に記すよう願い出たことが記されている。同一五年の「六郡郡邑記」に「福田村廿二軒 新田郷」とある。

福田村
ふくだむら

[現在地名]伊奈村福田

新戸あらど村の南にあり、両村の間を中通なかどおり川が東南へ流れる。近世の新田村で、当初は福田新田と称する(新編常陸国誌)。「寛文朱印留」には福田村とあって下総佐倉藩大給松平氏領。

福田村
ふくたむら

[現在地名]諸富町大字山領やまりよう字福田・水町みずまち野町のまち

現諸富町の北部に位置し、佐賀市と川副町に接する。

正保絵図に村名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報