インドシナ(読み)いんどしな(英語表記)Indo-China

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インドシナ」の意味・わかりやすい解説

インドシナ
いんどしな
Indo-China

インドシナの語は、19世紀初めに博物学者J・ライデンが大陸部東南アジア諸国の総称として用いたのが初めという。しかし19世紀末より、ベトナム、ラオスカンボジアがフランスの植民地となり、フランス領インドシナ連邦が成立して以来、インドシナは狭義にもっぱらこの3国をさして使われている。

[桜井由躬雄]

民族

狭義のインドシナの民族分布は複雑である。生業的には山地焼畑耕作民と平地水田耕作民に分かれるが、多くの語族は両者にまたがっている。モン・クメール語族にはカンボジア平地のクメール人と、ベトナム国境地帯のバフナル・カトゥ人などの山地民がおり、またベトナム平地部のベト人(キン人)とベトナム北部山地のムオン人もモン・クメール語族に含まれると考えられている。マライ・ポリネシア語族としては、中部ベトナムとカンボジアの一部に住むチャム人と、その周辺山地のジャライ、ラデ、チュル人などがある。タイ・カダイ語族ではラオス平地部のラオ人や、ベトナム、ラオス北部山岳地帯の黒タイ、赤タイ、ヌン人がいる。このほか、18世紀以降に中国南部から移住したと考えられるザオ(ヤオ)、フモン(ミャオ)人が北部山地に散居するが、言語的な帰属は不明である。

[桜井由躬雄]

歴史

インドシナでもっとも早期に歴史時代に突入したのは紅河(ソン・コイ川)デルタ中流域で、紀元前2世紀には雒(らく)王、雒将とよばれる支配階層や安陽王国という国家があったことが中国史料にあり、考古学上のドンソン文化がこれにあたるとされる。この地は前2世紀末には漢の領域に入り、以後10世紀の独立まで、中国南海交易の玄関になった。2世紀にはモンスーンの利用による東西海上交易の活発化に伴い、中部ベトナム沿岸にチャム人の林邑(りんゆう)国、南部ベトナムにおそらくクメール人の国と思われる扶南(ふなん)国が生まれ、風待ち港として、また内陸森林生産物の集散港として栄え、インド商人によって急速なインド文明の流入がおこった。6世紀にはインドシナの主交通路であるメコン川の中流域にクメール人の真臘(しんろう)が興り、扶南を継いでカンボジアから南部ベトナム一帯の都市連合国家を建設した。9世紀にはジャヤバルマン2世が出て、巨大な石造建築群で知られるアンコール時代をつくった。10世紀に入ると唐帝国の衰亡による隋(ずい)・唐的世界秩序の崩壊に連動して、紅河デルタにベトナムが独立し、11世紀ごろから李(り)朝、13世紀には陳(ちん)朝による長期安定政権が生まれた。中部ベトナムの占城(せんじょう)を加えたこれら3国の安定と隆盛が、宋(そう)代中国の商業的、農業的発展に対応していることはいうまでもない。元(げん)朝もこの利に着目して、13世紀には数次にわたってインドシナに遠征したが、すでに確立した独立国家の抵抗の前に敗れた。15世紀には明(みん)朝の侵攻を撃退したベトナムの黎(れい)朝は、急速に中国風律令国家を建設し、中部ベトナムの占城を盛んに侵略した。一方、13世紀以来の中国の雲南経略に刺激された山間タイ人の間に、国家建設の動きが高まり、14世紀中葉にはラオス平地部にランサン王国が生まれた。同時期にチャオプラヤー川中流域に興ったタイ人のアユタヤ朝はアンコールを壊滅させた。ラオス、東北タイを失ったアンコール王国は、以後メコン中流域のプノンペン地方の小地方勢力に転落する。17世紀以降のベトナムは、北部の鄭(てい)(チン)氏と中部の占城故地の阮(げん)(グエン)氏に分裂し、以後、阮氏は南部への進出を速め、18世紀にはサイゴン地方を占拠する。ラオスもまた18世紀にはルアンプラバンビエンチャン、チャンパサックの3王国が成立し、ほぼ現在の領域の骨格が確定する。18世紀末、ベトナム中部の西山タイソン)党の乱はたちまち全土を統一し、次代阮朝に至って、ベトナムの領域が確定した。

 19世紀中葉、産業革命を経たフランスは、インドシナの植民地化を目ざして、まず南部ベトナムをとり、ついでカンボジアを保護国化した。さらにソン・コイ川ルートをめぐる紛争から北・中部ベトナムを保護国として、1887年フランス領インドシナ連邦を組織し、ついで99年ラオスを保護国とした。20世紀前半、インドシナには南部の米を中心に帝国主義的搾取が行われたが、これに抗して1930年代から民族主義運動がおこった。40~45年日本軍が占領するが、45年、日本降伏を機に3国にはいっせいに独立政府が生まれ、フランスの再侵略に激しく抵抗した(第一次インドシナ戦争)。54年、ジュネーブ協定により、ベトナム北部にはベトナム労働党に主導されたベトナム民主共和国、南部にはベトナム共和国、ラオス王国、カンボジア王国の成立が認められた。しかし、各国の経済的、政治的分裂は、60年南ベトナム解放民族戦線の成立を機に、ふたたび戦乱に入った(第二次インドシナ戦争)。61年、アメリカ軍の直接介入により戦争は長期・広域化したが、75年、南ベトナム解放民族戦線、ラオス愛国戦線(パテト・ラオ)、カンプチア統一戦線などの社会主義勢力が勝利を収め、76年にかけて民主カンボジア、ラオス人民民主共和国、ベトナム社会主義共和国が次々と誕生した。

 しかし、民族間相互の不信と中ソ対決の影響は、1978年以来、ベトナム・カンボジア、ベトナム・中国間に紛争を生じさせ、とくに79年以来のカンボジア内乱は多数のインドシナ難民を生み出した。しかし、東西の緊張緩和、ソ連圏の崩壊とともにインドシナの緊張は和らぎ、まず86年末、ベトナムが経済開放政策(ドイモイ)に移行し、80年代末、カンボジアから完全撤退し、89年にはインフレも治り、外資が流入して著しい経済発展が起った。ラオスも同時期に新思考政策(開放政策)に転換し、91年に新憲法を公布し、国際援助が導入された。とくに94年にはメコン川にラオス・タイ友好橋が架設され、タイとの経済関係が濃密になった。97年にはアセアン(ASEAN)に参加している。長く内乱状況にあったカンボジアでも、80年代末から国際的な調停が進み、91年に和平協定が結ばれ、国連の管理下に復位したシアヌーク国王の下にポルポト派を除く統一政府が成立した。インドシナはようやく安定と発展の道を進みつつある。

[桜井由躬雄]

『石井米雄著『世界の歴史14 インドシナ文明の世界』(1977・講談社)』『桜井由躬雄・石澤良昭著『東南アジア現代史Ⅲ』(1977・山川出版社)』

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