稲吉村(読み)いなよしむら

日本歴史地名大系 「稲吉村」の解説

稲吉村
いなよしむら

[現在地名]淀江町稲吉

寺内てらうち村の南、孝霊こうれい山を水源として北西流する天井てんじよう川右岸に位置する。「大山寺縁起」によれば、佐々木高綱が大山権現に当地、末吉すえよし稲光いなみつ(現大山町)の各一町を寄進したという。また船上せんじよう(現赤碕町)の合戦の際、稲井瀬五郎三郎弘義という人物が、幕府軍に加勢したといい(伯耆之巻・古本伯耆巻)、稲井瀬氏は当地の土豪と推測される。永禄一二年(一五六九)尼子勝久軍が伯耆で奪回した諸城のなかの稲石いないし城は城山じようやまと称する地名があることから当地にあったとされる(宇田川村史)。天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)に「七十五貫 稲吉」とある。

藩政期の拝領高七六二石余、本免四ツ五歩。


稲吉村
いなよしむら

[現在地名]小郡市稲吉

宝満ほうまん川下流左岸に位置し、東は下岩田しもいわた村、西は同川を挟んで大崎おおざき村、南は矢次やつぎ村と相互に入り込んだ形で接する。北部に古川ふるこ西川にしかわなどがあり、宝満川はかつてこの付近で分流していたと考えられる。南部に条里制の遺称地名と思われる拾野恵じゆうのえ(「十ノへ」とも)がある(小郡市史)稲吉元矢次いなよしもとやつぎ遺跡の大溝で発見された一二世紀後半ともいう土師器に舟に乗る人物(稚児か僧侶)、二羽の水鳥が墨書されている。また一三世紀の常滑焼珠洲焼備前焼が出土しており、碁石もみられる。永仁四年(一二九六)永松ながまつ・稲吉は大善だいぜん玉垂たまたれ(現久留米市)の五月会流鏑馬役を賦課され(同年一二月日「玉垂宮大善寺神事注文写」隈家文書/鎌倉遺文二五)、貞和三年(一三四七)には鰺坂あじさか庄分として永松・用丸もちまるとともに三潴みづま庄鎮守高良こうら廟院(大善寺、現久留米市)の流鏑馬役を負担している(同年九月二三日「高良宮祭料米神役村々注文写」御船文書/南北朝遺文(九州編)二)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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