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鎌倉初期の武将。秀義(ひでよし)の四男。定綱(さだつな)の弟。平治(へいじ)の乱(1159)後、父や兄と別れて京都に住したが、1180年(治承4)源頼朝(よりとも)の挙兵を聞いて馳(は)せ参じ、諸所に転戦して戦功をたてた。とくに84年(元暦1)源義経(よしつね)の木曽義仲(きそよしなか)追討軍に加わり、頼朝から与えられた名馬生唼(いけずき)(生食、池月)に乗って、磨墨(するすみ)に乗った梶原景季(かじわらかげすえ)と宇治川で先陣を争った話は名高い。その後、義経に従って平氏追討に四国に赴き、戦功によって長門(ながと)(山口県)の守護に補せられ、左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられたが、95年(建久6)家を子重綱(しげつな)に譲って高野山(こうやさん)に入り、西入(さいにゅう)と号した。その後の事跡は不明。
[新田英治]
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…評定も終わって畠山勢が渡河を始めたとき,平等院の対岸から並んで川に乗り入れた2騎があった。頼朝下賜の生食(いけずき)に乗った佐々木高綱と,同じく摺墨(するすみ)に乗った梶原源太(景季)である。先行の梶原が,〈馬の腹帯が伸びている〉という佐々木の注意で締め直しているすきに,佐々木が駆け抜けた(〈拾イ〉)。…
…そのため備前の名族の多くは平氏の没落に殉じ,代わりに大量の関東御家人が勲功の賞として地頭職を与えられて入部してきた。守護は一ノ谷の戦後に土肥実平が備前,備中,備後3ヵ国を兼帯したが,その後,藤戸合戦の勲功で児島に地頭職を得た近江の佐々木高綱が備前守護となった。のちに一時期,幕府吏僚の長井泰重(大江広元の孫,六波羅評定衆)に代わったが,鎌倉末期には守護は佐々木(加地)氏に復していた。…
※「佐々木高綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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