岡山県備前市伊部いんべ一帯で製造される焼き物。古墳時代から平安時代に生産された須恵器の製法が変化し、12世紀ごろに始まったとされる。江戸時代には「伊部焼」とも呼ばれた。主につぼやかめ、すり鉢などが作られていたが、室町時代から安土桃山時代にかけて、茶道具も作られるようになった。絵付けやうわぐすりなしで、窯の大きさにもよるが、10日から2週間ほどかけて、薪を燃やし高温で焼き締める。現在もほとんどの備前焼がこの技法で作られている。作品の多くは、土の成形から完成まで全ての工程を作家が一貫して手掛けている。
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岡山県備前市一帯で焼かれた陶器。現在の瀬戸内市長船(おさふね)町を中心に古墳時代から続いた須恵器(すえき)が発展したもので、12、13世紀には主流を香々戸(かがと)(現備前市西部一帯)に移して、酸化炎焼成による焼き締め陶造りに転じた。14世紀に入ると、東は鎌倉から西日本の太平洋側を主とした商圏を確立し、甕(かめ)、壺(つぼ)、すり鉢を中心とした日常雑器のほか、茶壺、花瓶などの什器(じゅうき)も焼かれ、中央文化に密着していたと思われる。今日の備前市北部一帯の山中にあった窯(かま)は、室町後期には伊部(いんべ)集落に集約され、南、北、西の三大窯で共同生産体制を確立した。この大窯で桃山時代のわびの茶陶を焼造し、とくに水指(みずさし)、花いけなどに優作を残し、火襷(ひだすき)とよばれる緋色(ひいろ)の装飾法も考案された。桃山以前のものを古備前とよぶが、桃山後期から江戸初頭にかかる17世紀前半には、薄造りの茶陶、いわゆる伊部手(いんべで)をつくって作風は新展開した。江戸時代以降のものを伊部焼という。江戸後期にはさらに細工に徹して置物に秀作を残し、昭和に入って復興陶芸のブームに乗じてふたたび桃山茶陶が注目を集め、わびの茶陶造りで高名を得ている。釉薬(ゆうやく)をかけずに素地(きじ)の渋い味わいを生かすのが特色で、肌は火や窯の状態でさまざまに変化するが、その変化の状態で種々の呼称がある。
[矢部良明]
『伊東晃編『日本陶磁全集10 備前』(1977・中央公論社)』▽『『世界陶磁全集4 桃山1』(1977・小学館)』
岡山県の東南部,備前市(旧伊部村)を中心として焼かれている中国地方最大の窯業地の製品。俗に伊部(いんべ)焼とも呼んでいるが,厳密にいうと,慶長(1596-1615)以降,水簸(すいひ)した細緻な土を用い,塗り土をした黒褐色の薄手の作品を伊部手と呼び分けており,備前焼は広義の国焼としての総称である。その源流は6世紀以降,瀬戸内市に展開した須恵器窯(邑久古窯址群)にある。12世紀代に熊山東南麓の盆地に移動し,中世の備前窯を形成した。窯は約80基を数える。製品は日常用の壺,甕(かめ),擂鉢(すりばち)の3者を中心とし,初期には碗,盤,瓶,瓦などを,室町後期には茶陶や仏器類をあわせ焼いている。初期の製品は須恵器の流れをひいて灰色をしているが,鎌倉時代後期から備前独特の赤褐色に変わった。当初,地方窯であった備前窯は南北朝時代から西日本の須恵器窯に代わって生産を拡大し,畿内以西をその商圏に収めた。16世紀代には南大窯,西大窯,北大窯の3ヵ所に窯を統合させて生産の集約化をはかっており,江戸時代にかけて金重,木村,寺見,頓宮,大饗,森の窯元六姓によって窯株が独占された。瀬戸,美濃を除く他の中世窯では,信楽(しがらき)とともにもっとも早く侘茶(わびちや)の茶陶を焼いたことが16世紀代の茶会記などによって知られ,現存品では紹鷗所持の水指(みずさし)〈せいかい〉(徳川美術館),利休所持の水指〈破桶〉(前田家伝来)などが有名である。
江戸初期には遠州好みの薄手作りとなり,伊部手が主流となった。正徳年間(1711-16)以降,藩の御用品やみやげ物として色絵備前や白備前が焼かれた。幕末には江戸中期からの不振の打開策として小窯(天保窯=連房式登窯)が築かれるようになった。絵窯で焼き付けた絵備前が焼かれたのも幕末のことであるが,備前焼は基本的には須恵器の伝統をひいて無釉陶生産を貫いている。明治以降,急速に凋落した備前焼の復興の努力はさまざまの形で行われた。1913年に設立された伊部陶器学校を中心とする人々の主力は,煎茶器の生産に向けられたが,大正末年の金重陶陽(かねしげとうよう)の手びねり宝瓶の焼造によって,備前焼は再び脚光を浴びることになった。第2次大戦後,桃山古備前の再現を果たした金重の力は大きく,今日の備前焼の隆盛の基礎を作った。
執筆者:楢崎 彰一
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岡山県備前市伊部(いんべ)で産する無釉の焼締め陶器。炻器(せっき)に属する。邑久(おく)郡一帯の須恵器窯が母体となって13世紀に開窯した。はじめ須恵器風の灰色の素地であったが,15世紀に赤褐色の独特の焦げ肌,黄色の細かい自然釉のかかった焼締め陶へと転換した。大壺・甕(かめ)・擂鉢(すりばち)を3大製品とし,関東から琉球まで広く流通し,代表的地方窯となった。桃山時代には茶陶(花入・水指など)を焼き,名声が定まる。江戸初期には伊部手(いんべで)とよばれる薄手の茶陶を作って需要にこたえたが,中期には装飾のための細工物へと転換。昭和期に入り桃山茶陶を再興して知名度を高め復活した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域ブランド・名産品」事典 日本の地域ブランド・名産品について 情報
…本名勇。父の金重楳陽に備前焼の陶技を学ぶ。若いころから桃山時代の茶陶に魅せられて,その研究に没頭,胎土の吟味,ろくろの成形,窯の構造やたき方を工夫して第2次大戦前にほぼ桃山風備前の再現に成功した。…
…福岡荘は吉井川の河口に近く船の遡上が可能で,山陽道との交点に当たることから備前南部の物資集散の要衝となった。米,材木のほか,吉井,長船(おさふね),福岡の備前刀,香登(かがと),伊部(いんべ)の備前焼などの取引が行われ,その繁栄のようすは《一遍聖絵(いつぺんひじりえ)》や,今川了俊の《道ゆきぶり》にも描かれて,全国的にも著名な市であった。しかし,戦国末期に宇喜多直家が岡山城を築いたとき,その城下町に福岡市の商人を大量に移住させたこと,近世初頭の吉井川の大洪水で,潰滅的な打撃をうけたことが重なって衰亡した。…
※「備前焼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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