日本歴史地名大系 「稲嶺村」の解説 稲嶺村んなんみむら 沖縄県:沖縄島南部大里村稲嶺村[現在地名]大里村稲嶺(いなみね)平川(ひらかー)村の南にあり、南は具志頭(ぐしちやん)間切新城(あらぐしく)村(現具志頭村)。「おもろさうし」巻一四の五六に「一 よなはるおきて(与那原掟〔村役人〕)/しろことよたしゆ(白子鳴響だ主)/ありちやる まさり(有るかぎりの勝れ者を)/みたれは かなしや(見るといとしい)/又 しま中おきて(島中掟)/みれつなおきて(みれつな〔目取真か〕掟)/又 いなくにに つかい(稲国に招待)/いなみね つかい(稲嶺に招待)」とみえる。「いなみね」(稲嶺)の対語は「いなくに」(稲国)。 稲嶺村はにくむら 沖縄県:沖縄島北部名護市稲嶺村[現在地名]名護市稲嶺(いなみね)羽地(はにじ)間切の北東寄りに位置し、西は真喜屋(まぎやー)村。集落は北の東シナ海に面し、南側に山地が広がる。集落の形は見事な碁盤目状をしている。隣接する親村の真喜屋村とともにマギャー・ハニクと併称される。絵図郷村帳・琉球国高究帳・「琉球国由来記」などに村名はみえないが、道光一五年(一八三五)稲嶺・真喜屋両村が藪山の「おいす川山」三万五千坪の開地作職許可を願出ている(琉球産業制度資料)。当村は真喜屋村からの分村とされるが、分村の時期は不詳。 稲嶺村んなんみむら 沖縄県:沖縄島南部豊見城市稲嶺村豊見城(とうみぐすく)間切の中央、宜保(じーぶ)村の南、渡嘉敷(とうかしち)村の西にあった村。絵図郷村帳には同間切「いな嶺村」とみえるが、琉球国高究帳・「琉球国由来記」には記載がない。間切集成図は間切番所から南下して保栄茂(びん)村と翁長(うなが)村の間を通って兼城(かにぐすく)間切番所(現糸満市)へと続く宿道を東の渡嘉敷村と挟むように描いている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by