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竹中陣屋 たけなかじんや

日本の城がわかる事典の解説

たけなかじんや【竹中陣屋】

岐阜県不破郡垂井町にあった陣屋。陣屋というよりは、むしろ水堀で囲まれ、堅固な城門や虎口をもった小規模な平城(ひらじろ)というほうがふさわしい城塞だった。羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師として知られる竹中半兵衛重治の子重門が1588年(天正16)、竹中氏の居城菩提山城(垂井町)の麓に築いた陣屋である(ほかに文禄・慶長年間=1593~1615年ごろに築城されたとの説もある)。竹中氏は重治の代までこの陣屋の北方約1.5kmの菩提山城を居城としていたが、山城(やまじろ)で平時の使用には不便なことから、この陣屋が築かれたといわれている。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで、重門は初め西軍(豊臣方)につき、稲葉貞通、稲葉典通、加藤貞泰、関一政らとともに石川貞清が城主をつとめていた犬山城(愛知県犬山市)に籠城した。しかし、井伊直政の仲介により、西軍を離反して東軍(徳川方)に加わった。重門は菩提山城を徳川家康に差し出して黒田長政勢の武将として関ヶ原の戦いに従軍し、伊吹山中で、西軍の有力武将の小西行長を捕らえるなどの武功をあげた。こうしたことから、戦後、重門は徳川家康から不破郡岩手の領地6000石を安堵され旗本となった。また、重門の領地は関ヶ原の戦いの本戦場から東に約4kmにあり、戦いの被害を受けたため、家康から1000石の米を下賜されている。この1000石を使って築かれた陣屋の外堀は「千石堀」と呼ばれている。以後、竹中氏は江戸幕府の旗本交代寄合として12代が続いて明治維新まで存続した。竹中氏は石高から旗本格だったが、実質的には参勤交代を命じられた大名だった。広大な陣屋跡は現在、岩手小学校・幼稚園・岩手公民館の敷地や民有地になっているほか、竹中家の史料などを展示する菁莪記念館がある。岩手小学校の北側には、竹中氏の屋敷部分を取り巻く土塁や水堀の一部が残っているほか、白壁の櫓(やぐら)門が現存している。また、陣屋跡の入り口付近に、竹中重治の像が建っている。JR東海道本線垂井駅から巡回バス約45分で岩手公民館前下車、徒歩約1分(巡回バスの運行は1日数本なので注意。またバスは巡回のため迂回コースをとるので所要時間が長い)。または同駅前からタクシーで約10分。◇岩手城、岩手陣屋ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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