日本歴史地名大系 「竹広村」の解説 竹広村たけひろむら 愛知県:新城市竹広村[現在地名]新城市竹広伊那街道を挟んで川路(かわじ)村の北、大坪(おおつぼ)村の東にあたる。街道に沿って町並を形成し、北部は連吾(れんご)川を挟んで耕地が広がり、天正三年(一五七五)の設楽(したら)原の決戦場の地である。慶長九年(一六〇四)の検地帳では、田七町四反余・九一石余、畑六町六反余・七八石余、屋敷一六筆で、その他合わせて一九二石余の村。慶長六年、池田輝政の移封の後をうけて、当村の大部分は設楽氏の領地となって幕末に至る。一部は幕府領であったらしく、四石余がのち新城藩領となった。設楽氏は当村の大部分のほか、門前(もんぜん)・夏目(なつめ)・浅木(あさぎ)・谷下(やげ)・出沢(すざわ)の計六ヵ村を支配し、当村に陣屋を設けていた。 竹広村たけひろむら 兵庫県:揖保郡太子町竹広村[現在地名]太子町竹広連常寺(れんじようじ)村の南に位置する。江戸時代初期に連常寺村から分村。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)に村名がみえ、高二〇四石余。領主の変遷は阿曾(あそ)村と同じ。正保郷帳では田方一八二石余・畑方二一石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by