竹駒村(読み)たけこまむら

日本歴史地名大系 「竹駒村」の解説

竹駒村
たけこまむら

[現在地名]陸前高田市竹駒町

氷上ひかみ山西麓にあり、東は高田たかた村、北西横田よこた村。南境を気仙けせん川が流れ下る。村名は藤原基衡が勧請したという竹駒明神に由来するとされる(蓑塵埃拾録)。「葛西真記録」、奥州葛西記(長坂鈴木文書)などでは清重以来の中世の葛西領を七郡とし、そのなかに竹駒一郡を数えている。しかし当村と葛西氏所領竹駒郡との関係は明らかでない。竹駒郡は気仙二四郷と本吉もとよし一二郷・桃生ものう二四郷(現宮城県)を合せた俗称とされ、竹駒六十郷ともよばれたが(岩手県史)、戦国時代末期の呼称と思われる。慶長九年(一六〇四)には「竹駒」三二貫五三〇文と、字つぼをさすとみられる「つぼ」一四貫二六八文が大条尾張守に宛行われた(伊達世臣家譜)

正保郷帳に村名がみえ、田二七貫九三一文・畑一七貫九〇六文、ほかに新田一貫五二七文、水損と注記される。宝永二年(一七〇五)人数改では総人数七三二、名子二・水呑四一、鉄砲数一四(気仙史料)。「封内風土記」の家数約一一、坪・府本の小名をあげる。元禄三年(一六九〇)の本判三六枚一匁八分六厘九毛(気仙史料)。享保年間(一七一六―三六)北部たま山周辺の草飼入会について竹駒・高田両村の間で訴訟が起き、同一七年両者とも証拠がないとして草飼山は仙台藩の召上山となった。このうちには玉山金山の金掘人夫たちが所持する畑地も含まれていたが翌一八年人夫たち立会いのもと全山が召上げとなった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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