佐賀県のほぼ中央部、小城(おぎ)郡にあった旧町名(三日月町(ちょう))。現在は小城市三日月町地区で、市の北東部を占める。旧三日月町は、1969年(昭和44)町制施行。2005年(平成17)小城、牛津(うしづ)、芦刈(あしかり)の3町と合併して市制施行、小城市となった。『和名抄(わみょうしょう)』の郷名(ごうめい)に甕調(みかつき)とある。地域の大部分は佐賀平野に広がり、わずかに北端が天山(てんざん)山地にかかる。JR長崎本線と国道34号が南部を東西に、JR唐津(からつ)線と国道203号が西部を南北に通り抜け、南端に久保田(くぼた)駅、西端に小城駅がある。開発の歴史は古く、小城炭鉱の鉱害復旧で発見された土生遺跡(はぶいせき)は、弥生(やよい)期の平地農耕集落遺跡で国指定史跡となっており、周囲は遺跡公園として整備されている。古代の条里制地割は圃場(ほじょう)整備で姿を消したが、四条、五条などの遺称地名が残る。1967年には産米集団統一栽培などで朝日農業賞に輝き、以後佐賀農業のモデル地区をなす。かつては月給制農家で知られた。北麓(ほくろく)にミカン栽培、平野部は米作のほか蔬菜(そさい)園芸や畜産などをみる。隣接する佐賀市などへの通勤者も多く、住宅団地の造成が進む。
[川崎 茂]
『『三日月町史』(1985・三日月町)』
兵庫県西部、佐用郡(さようぐん)にあった旧町名(三日月町(ちょう))。現在は佐用町の南東部を占める一地区。1934年(昭和9)町制施行。1955年(昭和30)三日月町は大広村と合併。2005年(平成17)佐用町に合併。JR姫新線(きしんせん)と国道179号(出雲(いずも)街道)が東西に走る。地域の80%が山地で、わずかに千種(ちくさ)川の支流志文(しぶみ)川などに沿って平地が開ける。江戸時代、乃井野(のいの)は三日月藩森氏1万5000石の陣屋町、中心集落の三日月は出雲街道の宿場町であった。米作中心から近年ではナス、ブドウ栽培などに移り、高原牧場や観光クリ園もある。最明寺(さいみょうじ)の木造北条時頼(ときより)坐像(ざぞう)は国指定重要文化財。
[大槻 守]
『『三日月町史』全7巻(1964~1983・三日月町)』
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日没後の西の空低くにかかる鎌のように細い月をいう。月は一般に朔(新月)を含む前後3日間は見えず,旧暦3日にはじめて見えることが多い。なお,新月時の月面は満月から地球がうけるよりも80倍も強い地球の照返しをうけると計算されるが,新月に近いこのころの月も地球の強い照返しのために,直接太陽に照らされない球面がほのかに青白く見える。
執筆者:森 巧
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…(3)は年齢や霊的な表現の濃淡で区別される。瘦男(やせおとこ)や蛙(かわず)は死相を表し,三日月や阿波男,怪士(あやかし)などは神性の表現に特徴がある。平太(へいた)と中将は特に武将の霊に用い,頼政や景清,俊寛など特定の人物への専用面も現れた。…
…早く父を失い,母の手で育てられた。少年時代よりさまざまな境遇に転変の生活を送ったが,1890年《郵便報知新聞》に入社,翌91年同紙の日曜付録〈報知叢話〉に《三日月》を発表,主人公の男だて三日月次郎吉の痛快な活躍ぶりが読者に喜ばれ,幸田露伴の作かとまでもてはやされた。その後,朝日新聞社の専属作家となり,多くの任俠小説を書き,明治20年代の〈撥鬢(ばちびん)小説〉の大家と仰がれた。…
…新月の月は太陽とほぼ同じく東の空から出て夕方西の空に入る。これから3日ほどたつと西のほうだけが輝く三日月になり,夕方太陽の沈んだ直後に西の空に見える。新月から1週間もたつと半分だけ輝く上弦の半月になり,夕方太陽が西に沈むころに南中する。…
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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