篠坂村(読み)しのざかむら

日本歴史地名大系 「篠坂村」の解説

篠坂村
しのざかむら

[現在地名]智頭町篠坂

智頭宿の東方に位置し、千代川右岸、智頭街道沿いに集落がある。枝村に土尾があり、土地の人は「チチオ」という。同所はもと毛谷けだに村に属していたが、のち当村に含まれた。寛政(一七八九―一八〇一)頃には民家はなかった(因幡志)。当村から千代川上流の駒帰こまがえり村までの谷を本谷、支流北俣きたまた(北股)川の谷を北俣谷といい、両谷を合せて山形やまがた郷とよんだ。天正八年(一五八〇)五月一六日、羽柴秀吉は「山方之郷」に禁制(因幡民談記)を下している。

藩政期の拝領高は四三石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高四七石余、毛付高七六石余、本免六ツ一分、同年の物成高四一石余、ほかに藪役銀四分五厘・川役米一斗五升が課されていた。


篠坂村
しのさかむら

[現在地名]笠岡市篠坂

押撫おしなで村の北にあり、西は備後国坪生つぼう(現広島県福山市)など。集落は標高一五〇―二〇〇メートルの丘陵上の盆地に分散。西部の内山うちやま遺跡からは六世紀末―七世紀初頭の須恵器が出土。北方高屋たかや(現井原市)に通じる高屋往来の東方、標高一五〇メートルの城関じようかん山に仮名沢かなざわ城跡がある。同往来を扼する格好の地で、「備中誌」によれば、城主は橋勝信・信元父子。信元は永禄一二年(一五六九)に反毛利氏の藤井皓玄が奪取した神辺かんなべ(現広島県深安郡神辺町)を攻め落し、天正八年(一五八〇)に病死したという。

元和五年(一六一九)より備後福山藩領、元禄一二年(一六九九)からは幕府領となり、文政一〇年(一八二七)以降は三卿の一橋領であったと考えられる。


篠坂村
しのざかむら

[現在地名]鳥取市篠坂

今在家いまざいけ村の南、有富ありどめ川右岸に位置する。拝領高は一〇四石余、本免五ツ六分。藪役銀三匁五分・山役銀三匁五分が課されていた(藩史)。佐分利氏・梶浦氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数七。天保一四年(一八四三)の村々人数増減書上帳(加藤家文書)によると男二〇・女二一。嘉永二年(一八四九)の組合帳(同文書)では竈数八。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一四七石余、竈数九。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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