糸魚川町(読み)いといがわまち

日本歴史地名大系 「糸魚川町」の解説

糸魚川町
いといがわまち

越後南西部を扼する当地方は、山岳が海岸近くまで迫り、日本海に流入する数本の河川流域に人が居住する。そのなかでもひめ川が最も大きな川であり、この川に沿って古代から信濃と越後を結ぶ交易の道が形成された。北陸道の要衝でもあるこの地は、越中口への備えとしても軍事的・経済的に重視された。町の成立時期は明確でないが、戦国時代末期には糸魚川城(清崎城)とそれに付随する商・工・武士団の町が形成されていたと思われる。中世以来高田たかだ(現上越市)の支城的な地位にあり、城主交替も多かったため、町の様子は明確でない。享保二年(一七一七)松平直之領の糸魚川藩成立後も、藩主は定府であったため、糸魚川にはよこ町に陣屋が置かれ、役人が交替で派遣された。町は東西に走る北陸道とそれに直交する信州街道に沿っており、北陸道沿いには東の押上おしあげ村からてら町、じようノ川に沿って鉤の手に曲りおお町と続き、その西は南北の二町に分れ、北は新屋あらや町、南は七間しちけん町である。この二町の西端が信州街道との四つ角で、西は横町に続く。横町は東と西の二町に分けられることもある。四つ角から南の信州街道に沿って新田しんでん町、コの字に曲って鉄砲てつぽう町へ至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報