鎌倉後期の曹洞禅僧で,大本山総持寺の開山。日本曹洞宗の太祖,諡(おくりな)は仏慈禅師,弘徳円明国師,常済大師。号は瑩山(けいざん)。越前多禰(たね)郡(現,福井県武生市)に生まれ,13歳で永平寺に出家し,2世孤雲懐奘(こうんえじよう)や大野郡宝慶寺開山の寂円など道元の弟子に学び,京都の禅僧や紀伊興国寺の心地覚心(しんちかくしん)らに参禅した。のち北陸に帰り,加賀大乗寺の徹通義介(てつつうぎかい)の弟子となり,修行を重ねた。その後,阿波城満寺や加賀浄住寺を開き,1313年(正和2)には能登羽咋郡酒井保の地頭滋野(しげの)信直・祖忍尼夫妻の援助をえて永光寺(ようこうじ),21年(元亨1)には定賢律師の帰依により同国櫛比荘に総持寺(1907年に横浜市鶴見に移転)を開山している。紹瑾は宗祖道元が否定的であった密教的な要素を取り入れ,祈禱を行い,武士や民衆の要求にこたえうる禅風を打ち出し,明峰素哲(めいほうそてつ),峨山韶碩(がさんじようせき)(総持寺2世)などの弟子を養育して同宗発展の基礎を築いた。
執筆者:広瀬 良弘
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…道元は,達磨宗の人々を包容することで自己の新仏法を出発させるのである。道元に始まる正伝の仏教が曹洞宗とよばれるのは,永平3世の義介が,すでに京都や博多に定着している臨済禅に対して,あらためて自派の伝統を確認し,これを紹瑾(じようきん)に伝えたことによる。紹瑾は能登に洞谷山永光寺を開き,如浄以来の伝統を再編して五老峰をつくるとともに,仏陀より懐奘に至る伝灯を記す《伝光録》を編するのであり,日本曹洞宗の伝統はここに確立される。…
…43年(寛元1)越前に移り,翌44年には大仏寺(後の永平寺)を開いてここを根本道場とし,《正法眼蔵》などを示して弟子たちを養成した。道元下3世の瑩山紹瑾(けいざんじようきん)は能登に永光(ようこう)寺,総持寺(後年横浜に移転)を開き,民衆教化をめざし,その弟子峨山韶碩(がさんじようせき)の門下からは五哲あるいは二十五哲と呼ばれる多くの俊秀が出て,教団は全国的発展を遂げ,寺院数1万4700余を有する,単独教団としては日本最大の宗派となった。現在福井永平寺,横浜総持寺を二大本山としている。…
※「紹瑾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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