出石神社の東寄り山際にあり、山号は応峰山、高野山真言宗に属する。本尊は十一面千手千眼観音。惣持寺とも書き、中世では一宮惣持寺、近世以降は東光院総持寺ともいう。寺伝によれば、行基が天平年間(七二九―七四九)に天日槍が新羅国から将来した聖観音を安置して応峰山総持寺と称したのに始まるとも、背後の山上にあった
文明四年(一四七二)五月一六日付で守護山名氏の被官垣屋豊遠は、多年他所に移していた総持寺が「往古之蹤跡」に任せて「当所」(現在地であろう)で堂舎を再興したので、境内山林田畠以下、先々のごとく寺家進退相違あるべからずとして安堵の書下(出石神社蔵総持寺文書)を発している。
古くは惣持寺・持寺とも書いた。高野山真言宗。補陀落山と号し千手観音を本尊とする。西国三十三所観音霊場の第二二番札所で御詠歌は「おしなべてたかきいやしき惣持寺の仏の誓いたのまぬはなし」。巡礼路は第二一番
「朝野群載」所収の延喜一二年(九一二)四月八日の総持寺鐘銘によると、藤原山蔭が父高房が抱いていた造仏の願を果すため、遣唐使大神御井に頼んで白檀の香木を買得、千手観音像を造って摂津国
諸嶽山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。法人名は大本山総持寺祖院。元亨三年(一三二三)六月一七日の総持寺縁起(総持寺文書、以下同文書は省略)に「諸岳総持寺」とみえ、同元年に瑩山紹瑾が諸岳観音堂(諸岡寺)を禅宗に改めて当寺としたという。同四年七月七日、瑩山は当寺住持職を峨山韶碩(紹碩)に譲り(瑩山紹瑾譲状)、以後、当寺は峨山派の本拠となる。元弘三年(一三三三)九月、当寺雑掌禅勝が寺領田畠の当知行安堵を願出て、国司中院良定より認められ(総持寺雑掌禅勝申状)、正平七年(一三五二)正平一統の際に敷地を安堵されている(同年正月一一日前右兵衛督某安堵状)。延文三年(一三五八)左衛門信氏より
寺伝によれば初めは天台宗で、建保二年(一二一四)本間三郎重光の創建、順徳天皇女利慶徳善大比丘尼の開基という。貞応二年(一二二三)徳善が没し姪の善崇尼が継ぎ、嘉禎三年(一二三七)没後は無住、堂舎も廃退していたが、永仁四年(一二九六)高師重女心妙が入寺して再興。師重は額田郡
近世の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
横浜市鶴見(つるみ)区鶴見町にある曹洞(そうとう)宗の大本山。山号は諸嶽山(しょがくさん)。本尊釈迦如来(しゃかにょらい)。明治期までは能登(のと)国鳳至(ふげし)郡櫛比庄(くしひのしょう)(石川県輪島(わじま)市門前町門前(もんぜんまちもんぜん))にあった。その地には行基(ぎょうき)が開創したと伝える真言宗寺院諸嶽寺観音(かんのん)堂があったが、1321年(元亨1)瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が住持の定賢(じょうけん)より寺領の寄進を受け、ここに僧堂を開き、寺号を諸嶽山総持寺と改めた。これより当寺は曹洞宗となり、瑩山が開山となった。翌年後醍醐(ごだいご)天皇の勅により官寺に列し、越前(えちぜん)(福井県)の永平寺とともに大本山と称して一宗の出世道場とされた。ついで第2世峨山韶碩(がさんじょうせき)のとき大いに寺の基礎が固められ、門下に太源宗真(たいげんそうしん)、通幻寂霊(つうげんじゃくれい)、無端祖環(むたんそかん)、大徹宗令(だいてつそうれい)、実峰良秀(じっぽうりょうしゅう)の五哲が出てそれぞれ塔頭(たっちゅう)を開き、以後この5支院の住持が輪番で本山をつかさどる制が定められた。またほかにも多数の名僧を輩出し教線を拡大したが、中世以来、出世道場の資格をめぐって永平寺との間にしばしば紛争があり、1615年(元和1)徳川家康によって両寺ともに大本山と定められた。江戸時代には加賀(かが)前田家より寺領400石を許された。1870年(明治3)輪住制を廃し、5院を本山に合併し、旃崖奕堂(せんがいえきどう)を独住第1世とし、大岡棋仙(だいこうきせん)、穆山瑾英(ぼくざんきんえい)、牧牛素堂(ぼくぎゅうそどう)と代を重ねたが、1898年4月13日の夜、大法堂より出火して一山を灰燼(かいじん)に帰した。これを機に1907年(明治40)に官許を得て現在地に移転し、旧地には別院(総持寺祖院)を置いて今日に至る。境内は広大な丘陵上にあり、近年太祖(たいそ)堂なども増建され、一大伽藍(がらん)の威容を誇っている。寺宝に紙本着色提婆達多(だいばだった)像、絹本着色紹瑾和尚(おしょう)像など国重要文化財がある。
[平井俊榮]
『室峰梅逸編『総持寺誌』(1965・総持寺)』▽『粟山泰音著『総持寺史』(1938・総持寺)』
大阪府茨木(いばらき)市総持寺にある寺。高野山真言(こうやさんしんごん)宗の準別格本山。西国(さいごく)三十三所第22番札所。山号は補陀洛山(ふだらくさん)。本尊は千手(せんじゅ)十一面観世音菩薩(ぼさつ)。886年(仁和2)藤原鎌足(かまたり)第8世山陰中納言政朝(やまかげちゅうなごんまさとも)の創建。890年(寛平2)政朝の三回忌の追福に、7男7女の子らが同心協力して大伽藍(がらん)を建立し、落慶の儀を修した。政朝は料理の名人で、山陰流庖丁(ほうちょう)式の開祖と仰がれている。その後、一条(いちじょう)、後一条(ごいちじょう)、白河(しらかわ)、鳥羽(とば)各天皇の勅願寺として栄え、山城(やましろ)(京都府)の門跡(もんぜき)寺院浄土寺の末寺とされた。1571年(元亀2)織田信長の兵火にかかって全焼したが、本尊は下半身が焼けたのみで焼け残ったと伝え、以来、火除(ひよ)け観音として信仰されている。本堂は、豊臣秀頼(とよとみひでより)が片桐且元(かたぎりかつもと)に命じて1603年(慶長8)に再建したものである。寺宝には、阿弥陀如来(あみだにょらい)像、弁才天像(土佐光重(みつしげ)筆)、釈迦涅槃(しゃかねはん)像、御朱印などがある。
[野村全宏]
和歌山県和歌山市梶取(かんどり)町にある西山(せいざん)浄土宗の寺。受陽山(じゅようさん)智足院(ちそくいん)と号し、俗に梶取本山という。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。赤松義則(よしのり)の子明秀光雲(みょうしゅうこううん)を開山とし、1450年(宝徳2)開創。1541年(天文10)第11世哲翁託賢(てつおうたくけん)のとき後奈良(ごなら)天皇、ついで1568年(永禄11)に正親町(おおぎまち)天皇の勅願所となる。1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉の兵火により一山は破壊されたが、豊臣秀長が復旧。歴代領主の信仰厚く、和歌山における浄土宗の根本道場となる。寺宝の阿弥陀像は「躍(おど)り仏」の故事により有名である。絹本着色釈迦(しゃか)三尊像は国重要文化財。
[清水 乞]
石川県輪島市の旧門前町にある寺。山号は諸岳山。もと曹洞宗の大本山で,現在は祖院とされている。能登にある本山という意味で能山とも呼ばれ,岳山とも通称される。寺基は元来,諸岳(もろおか)寺あるいは諸岳観音堂といわれた密教系の教院であった。一説に行基の建立とも伝えられる。1321年(元亨1)時の住持定賢律師は霊夢により,永光(ようこう)寺(羽咋市)の瑩山紹瑾(けいざんじようきん)にここを譲り,瑩山は禅院に改め,寺号を諸岳山総持寺と名づけて開山となった。翌年,後醍醐天皇より10種の勅問があり,これに対する瑩山の奉答が天皇の叡情にかない,曹洞出世の道場に補され寺額を賜ったとされるが,総持寺と後醍醐天皇の関係は疑問視されている。2世峨山韶碩の時に寺基が確立し,門下の五哲が普蔵院(太源宗真),妙高庵(通幻寂霊),洞川庵(無端祖環),伝法庵(大徹宗令),如意庵(実峰良秀)の5支院を開き,この5院の住持が順番で本山の住持を務める輪住制が開始され,1870年(明治3)旃崖奕堂(せんがいえきどう)が独住1世として晋住するまで続いた。日本曹洞宗は峨山下の五哲およびその法孫により全国に広められたので,末派の寺院の多くは総持寺の門葉に連なるものである。また出世道場の認可や本山としての寺格の問題をめぐり,永平寺としばしば紛争を起こしたが,寺統の本山として常に日本曹洞宗の支配的立場にあった。98年不慮の失火で全山焼失し,本山も横浜に移転されたが,伽藍は別院として再建された。
執筆者:石川 力山
横浜市鶴見区にある寺。山号は諸岳山。福井県永平寺とともに曹洞宗の大本山で,1321年(元亨1)瑩山紹瑾(けいざんじようきん)によって開創され,もと能登にあったが,明治末年に現在地に移された。1898年(明治31)4月13日夜,能登門前町にあった総持寺は法堂より出火し,伝灯院(開山廟所)経蔵その他小建築物10余棟を残して,全山灰燼(かいじん)に帰した。その後ただちに再建計画が進められたが,従来の所在地は交通不便で,一宗の本山としては末派僧侶や檀信徒の参拝にも不都合であり,1907年3月9日,独住4世石川素童の時,寺基移転の官許を得て,11年11月5日,横浜市鶴見に移転遷祖の式が行われた。その後放光堂,跳竜室,仏殿,衆寮,紫雲台,待鳳館,常照殿,大庫裏,三松関,勅使門,僧堂等の建物が相次いで建設され,65年峨山韶碩六百回大遠忌には大祖堂が,69年には山門が建立されて全山の威容を整えるに至った。現在,宗祖以来の伝統を受け継ぐ修行道場として,また京浜地区の伝道の中心として布教・教育・福祉等に幅広い活動が行われており,鶴見大学も併設され幼稚園より一貫した教育が行われている。寺域は約15万坪,寺宝には瑩山頂相(ちんぞう),仏殿大法被,《総持寺中興縁起》(いずれも重文)等がある。
執筆者:石川 力山
大阪府茨木市にある高野山真言宗の寺。山号は補陀洛山。寺基建立の経緯は,山蔭中納言藤原高房が勅命により筑紫に赴く途次,大亀を助けてやったが,その子政朝が水難に遇った際この大亀に助けられたので,高房はこれを観音の加護として報恩のため観音像造立供養を発願し,中国に用材の白檀香木を求め,政朝のときに千手観音像が完成したと伝えられる。890年(寛平2)に伽藍が造立され,一条,後一条,白河,鳥羽の4天皇の臨幸もあり,寺地を賜り勅願所に列せられて外護を受けた。この本尊千手観音は〈子育て観音〉と呼ばれ,また1571年(元亀2)織田信長の軍の兵火により伽藍が焼失したときにもこの観音像は焼け残ったことから〈火伏せの観音〉として庶民の信仰を集め,西国三十三所観音霊場の第22番の札所となっている。伽藍はその後,1603年(慶長8)豊臣秀頼の発願により,茨木城主片桐且元が奉行となって復興された。現本堂はその遺構で,ほかに多くの寺宝を有する。
執筆者:石川 力山
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
横浜市鶴見区にある曹洞宗大本山。1321年(元亨元)瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が能登国櫛比(くしひ)村(現,石川県輪島市門前町)の僧定賢の帰依をうけて寺を譲られたのに始まる。朝廷の勅願所,江戸幕府の祈願所として永平寺(現,福井県永平寺町)とともに曹洞宗本山として興隆。1898年(明治31)火災で堂塔・伽藍を全焼し,再建にあたって1911年に石川県から現在地に移転した。絵画に「提婆達多像」「前田利家夫人像」「紹瑾和尚像」,工芸に刺繍獅子吼文大法被,書跡に瑩山紹瑾筆の「観音堂縁起」があり,いずれも重文。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…43年(寛元1)越前に移り,翌44年には大仏寺(後の永平寺)を開いてここを根本道場とし,《正法眼蔵》などを示して弟子たちを養成した。道元下3世の瑩山紹瑾(けいざんじようきん)は能登に永光(ようこう)寺,総持寺(後年横浜に移転)を開き,民衆教化をめざし,その弟子峨山韶碩(がさんじようせき)の門下からは五哲あるいは二十五哲と呼ばれる多くの俊秀が出て,教団は全国的発展を遂げ,寺院数1万4700余を有する,単独教団としては日本最大の宗派となった。現在福井永平寺,横浜総持寺を二大本山としている。…
※「総持寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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