総持寺(読み)そうじじ

百科事典マイペディア 「総持寺」の意味・わかりやすい解説

総持寺【そうじじ】

横浜市鶴見区にある曹洞宗本山本尊釈迦如来。もと能登鳳至(ふげし)郡櫛比村にあって行基の開創と伝えられた諸岳寺(院)を,1321年住持の定賢が瑩山(けいざん)にゆずり,曹洞宗総持寺とした。後醍醐天皇により官寺となり,永平寺と寺勢を争い,永平寺を越本山,総持寺を能本山と定めた。1898年焼失したため石川素堂らにより現地へ移建されたが,能登の伽藍(がらん)は別院として再建,祖院とされている。瑩山頂相(ちんぞう),仏殿大法被,《総持寺中興縁起》などの重要文化財がある。
→関連項目紹瑾正法寺曹洞宗鶴見[区]横浜[市]

総持寺【そうじじ】

石川県輪島市にある曹洞宗の寺。本尊は釈迦如来。1321年瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が諸岳観音堂(諸岡寺)を禅宗に改め,2代峨山紹碩(がさんじょうせき)以降峨山派の本拠となった。1570年に兵火に遭い荒廃。江戸初期加賀(かが)藩(金沢藩)前田氏が再興に努め,1615年には幕府祈願所とされ,能本山と称した。1898年伽藍を焼失し,1910年神奈川県鶴見(つるみ)に移転。跡地に再建された当寺は総持寺祖院として存続。
→関連項目興聖寺門前[町]輪島[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「総持寺」の意味・わかりやすい解説

総持寺
そうじじ

曹洞宗大本山。諸岳山と号し,横浜市鶴見区にある。もと,行基が能登鳳至郡に諸岳寺観音堂を開創したのが始りで,元享1 (1321) 年住職が瑩山禅師に帰依したために,諸岳寺を曹洞宗に改宗して瑩山を開山とし,寺号を改めた。翌年永平寺とともに大本山となり,のち峨山禅師のもとで禅風大いにふるった。しかし 1898年焼失後,1907年現在の地に移築し,旧地に別院を配置した。総持 (陀羅尼異名) の名の示すように,真言密教の影響があり,現在の曹洞宗寺院大部分は総持寺の系統である。

総持寺
そうじじ

東京都足立区西新井にある真言宗智山派の寺。五智山遍照院と号す。空海創建と伝えられ,本尊十一面観音に加え,自作像も安置し,当時流行していた疫病退散を祈願したという。これが,厄除け霊験あらたかな御大師様として,今日も西新井大師通称で人々の信仰を集めている。江戸初期,12世賢真が出て一層の発展に寄与,末寺を従える有力寺院となった。長保3 (1001) 年の銘のある鋳銅刻画『蔵王権現像』は国宝,ほかに重要文化財も多数所蔵する。

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精選版 日本国語大辞典 「総持寺」の意味・読み・例文・類語

そうじ‐じ ソウヂ‥【総持寺】

[一] 東京都足立区西新井にある真言宗豊山派の寺。山号は五智山。弘仁一一年(八二〇)空海の草創と伝える。本尊は十一面観世音菩薩・弘法大師像。寺宝の蔵王権現像は国宝。西新井大師。
[二] 横浜市鶴見区鶴見にある曹洞宗の大本山。山号は諸巖山。もと石川県鳳珠(ほうす)郡門前町にあり、諸巖寺観音堂という行基開創の真言宗の寺。元亨元年(一三二一)住持定賢が瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)に譲り、改宗して総持寺と号した。明治四四年(一九一一)現在地に移転。

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デジタル大辞泉 「総持寺」の意味・読み・例文・類語

そうじ‐じ〔ソウヂ‐〕【総持寺】

横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山。山号は諸岳山。もと石川県輪島市にあり、行基の開創と伝える真言宗の寺であったが、元亨元年(1321)請われて瑩山紹瑾けいざんじょうきんが入寺、曹洞宗に改めた。中世以来、永平寺との間でしばしば勢力争いがあった。火災により、明治40年(1907)現在地に移転。旧地には総持寺祖院を残す。

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デジタル大辞泉プラス 「総持寺」の解説

総持寺

群馬県太田市世良田町にある真言宗豊山派の寺院。山号は威徳山、院号は陀羅尼院。鎌倉時代の総領家級の館跡に建てられた寺で、「館の坊」とも呼ばれる。館の居住者には新田義重、新田義貞などの説がある。境内は「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。

総持寺

神奈川県横浜市鶴見区にある寺院。曹洞宗大本山。山号は諸嶽山。能登(石川県)にあった真言宗の寺、諸岳寺が起源。1321年、曹洞宗に改宗して改称。1898年の火災による焼失後、1907年に官許を得て、1911年に現在地に寺基移転。

総持寺

大阪府茨木市にある寺院。高野山真言宗。山号は補陀洛山、本尊は千手十一面観世音菩薩。西国三十三所、第22番札所。9世紀末の建立。火除け、厄除けで知られる。

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世界大百科事典 第2版 「総持寺」の意味・わかりやすい解説

そうじじ【総持寺】

横浜市鶴見区にある寺。山号は諸岳山。福井県永平寺とともに曹洞宗の大本山で,1321年(元亨1)瑩山紹瑾(けいざんじようきん)によって開創され,もと能登にあったが,明治末年に現在地に移された。1898年(明治31)4月13日夜,能登門前町にあった総持寺は法堂より出火し,伝灯院(開山廟所)経蔵その他小建築物10余棟を残して,全山灰燼(かいじん)に帰した。その後ただちに再建計画が進められたが,従来の所在地は交通不便で,一宗の本山としては末派僧侶や檀信徒の参拝にも不都合であり,1907年3月9日,独住4世石川素童の時,寺基移転の官許を得て,11年11月5日,横浜市鶴見に移転遷祖の式が行われた。

そうじじ【総持寺】

石川県鳳至(ふげし)郡門前町にある寺。山号は諸岳山。もと曹洞宗の大本山で,現在は祖院とされている。能登にある本山という意味で能山とも呼ばれ,岳山とも通称される。寺基は元来,諸岳(もろおか)寺あるいは諸岳観音堂といわれた密教系の教院であった。一説に行基の建立とも伝えられる。1321年(元亨1)時の住持定賢律師は霊夢により,永光(ようこう)寺(羽咋市)の瑩山紹瑾(けいざんじようきん)にここを譲り,瑩山は禅院に改め,寺号を諸岳山総持寺と名づけて開山となった。

そうじじ【総持寺】

大阪府茨木市にある高野山真言宗の寺。山号は補陀洛山。寺基建立の経緯は,山蔭中納言藤原高房が勅命により筑紫に赴く途次,大亀を助けてやったが,その子政朝が水難に遇った際この大亀に助けられたので,高房はこれを観音の加護として報恩のため観音像造立供養を発願し,中国に用材の白檀香木を求め,政朝のときに千手観音像が完成したと伝えられる。890年(寛平2)に伽藍が造立され,一条,後一条,白河,鳥羽の4天皇の臨幸もあり,寺地を賜り勅願所に列せられて外護を受けた。

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日本歴史地名大系 「総持寺」の解説

総持寺
そうじじ

[現在地名]足立区西新井一丁目

近世の西新井にしあらい村のほぼ中央にある。五智山遍照へんじよう院と号し、真言宗豊山派。本尊は十一面観音。天長三年(八二六)弘法大師が開創したと伝える古刹で、一般には西新井にしあらい大師という通称で著名。史料には惣持寺ともみえる。中興は建治元年(一二七五)頃、鶏足けいそく(現栃木県足利市)の慈猛の開いた流派である慈猛流を相伝して伝承したと伝える(総持寺資料)。しかし文安元年(一四四四)、同三年および文亀三年(一五〇三)に火災に遭い、近世以前の記録は少ない(天保七年「西新井総持寺碑記」)。「義演准后日記」文禄五年(一五九六)閏七月四日条に「武州惣持寺」とみえ、山城醍醐寺座主義演に当寺の角坊演照からの書状が届き、義演は返事を送っている。

総持寺
そうじじ

[現在地名]鶴見区鶴見二丁目

曹洞宗大本山、諸嶽山と号し、本尊は釈迦牟尼。元亨元年(一三二一)瑩山紹瑾が能登国櫛比くしび(現石川県鳳至郡門前町)の僧定賢の帰依を受けてその寺を譲られ、曹洞宗寺院としたのが始まりで、同年後醍醐天皇から勅額と「日域無双の禅林、曹洞の本山、賜紫出生第一の道場」との綸旨を得たという。二世峨山の五人の高弟は各々寺内に塔頭を開き、以後この五院の住持が輪番で総持寺の住持を務めた(この輪番制は明治三年廃される)

総持寺
そうじじ

[現在地名]高岡市関町

高野山真言宗で、山号は衆徳山。通称観音寺。貞享二年寺社由緒書上は、正平八年(一三五三)四月三日禅恵の再興とする。禅恵は河内の天野山金剛こんごう(現大阪府河内長野市)の正学頭となり、南朝方に深くかかわった人物である。右の中興年月日などは、本尊の木彫寄木造千手観音坐像の胎内銘文に記された年月日、願主名と一致している。

総持寺
そうじじ

[現在地名]門前町門前

諸嶽山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。法人名は大本山総持寺祖院。元亨三年(一三二三)六月一七日の総持寺縁起(総持寺文書、以下同文書は省略)に「諸岳総持寺」とみえ、同元年に瑩山紹瑾が諸岳観音堂(諸岡寺)を禅宗に改めて当寺としたという。同四年七月七日、瑩山は当寺住持職を峨山韶碩(紹碩)に譲り(瑩山紹瑾譲状)、以後、当寺は峨山派の本拠となる。元弘三年(一三三三)九月、当寺雑掌禅勝が寺領田畠の当知行安堵を願出て、国司中院良定より認められ(総持寺雑掌禅勝申状)、正平七年(一三五二)正平一統の際に敷地を安堵されている(同年正月一一日前右兵衛督某安堵状)。延文三年(一三五八)左衛門信氏より内保うちぼ村の田を寄進されたのをはじめとして(同年一一月四日左衛門尉信氏寄進状案)櫛比くしひ庄地頭長(長谷部)氏一族より多くの寺領を寄進された。康安二年(一三六二)峨山は当寺住持を弟子のなかから選ぶことを定め(同年二月九日峨山韶碩置文)、さらに貞治三年(一三六四)には弟子の建立した当寺塔頭の如意庵・伝法庵・洞川庵・妙高庵・普蔵院の五ヵ寺から選ぶことを定めた(同年一二月一三日峨山韶碩置文)

総持寺
そうじじ

[現在地名]知立市西町 新川

東海道沿い、知立神社南参道入口北側にある。神路山松智院と号し、天台寺門宗。本尊は流汗不動明王。知立神社の別当寺であった神宮じんぐう寺が焼失したので、この地に移転、総持寺と改めた。別に「上寺」ともよばれた。神宮寺は嘉祥三年(八五〇)円仁の創建といい、神宮寺跡碑に「嘉祥三年、僧円仁之ヲ開基ス。神宮寺七坊ノ学頭ナリ。玉泉坊・西林坊・一乗坊・宝蔵坊・小泉坊・古祥坊ヲ神宮寺七坊ト称ス。天文十六年戸田禅正直光ノ兵火ニ罹リ焼亡ス」とある。

総持寺は総持寺跡碑に、「元亀年中ノ再建ニ係リ、神路山・松智院・玉泉坊・総持寺ト称ス。

総持寺
そうじじ

[現在地名]岡崎市中町

なか町の丘陵中腹に南面して立地。昭和二年(一九二七)まではおと川の北岸第二段丘縁辺の籠田かごだ町にあった。曹洞宗で瑞生山深恩しんおん院と称する。本尊大日如来。草創より明治初年まで尼寺として存続。

寺伝によれば初めは天台宗で、建保二年(一二一四)本間三郎重光の創建、順徳天皇女利慶徳善大比丘尼の開基という。貞応二年(一二二三)徳善が没し姪の善崇尼が継ぎ、嘉禎三年(一二三七)没後は無住、堂舎も廃退していたが、永仁四年(一二九六)高師重女心妙が入寺して再興。師重は額田郡比志賀ひしか郷を心妙に譲与し、この時禅宗になった。この後、高氏一族や足利将軍家一族の尼僧が住持したが、戦国期に衰微し、寺領菅生すごう郷・比志賀郷も不知行となった。一三世理薫尼(奥平貞能妹)・一四世芳薫尼(内藤家長女)の代に復興し、慶長八年(一六〇三)に朱印地一〇〇石を寄進されたという。

総持寺
そうじじ

[現在地名]長浜市宮司町

宮司みやし町のうち旧下司げしにある。医王山と号し、真言宗豊山派。本尊薬師如来。天平年間(七二九―七四九)行基により近江国分寺の試寺として創建され、永享二年(一四三〇)実済が将軍足利義教の御教書を得て中興したと伝える。同五年後花園天皇勅願所として、総持院の号を受ける。長保三年(一〇〇一)一一月一日の太政官符(平松文書)持寺とみえる。

総持寺
そうじじ

[現在地名]茨木市総持寺一丁目

古くは惣持寺・持寺とも書いた。高野山真言宗。補陀落山と号し千手観音を本尊とする。西国三十三所観音霊場の第二二番札所で御詠歌は「おしなべてたかきいやしき惣持寺の仏の誓いたのまぬはなし」。巡礼路は第二一番穴太あなお(現京都府亀岡市)から亀山かめやま街道を南下して当寺に至り、西国街道から第二三番勝尾かつお(現箕面市)へと向かった(西国巡礼細見記)

「朝野群載」所収の延喜一二年(九一二)四月八日の総持寺鐘銘によると、藤原山蔭が父高房が抱いていた造仏の願を果すため、遣唐使大神御井に頼んで白檀の香木を買得、千手観音像を造って摂津国島下しましも郡に一宇を建立して安置、「総持寺」と名付け、山蔭の次男公利が鐘一口を鋳造したという。高房の観音造像発願について寺伝は、高房が承和年間(八三四―八四八)大宰府に下る途中で漁師に捕獲された亀を助けたが、船中、幼児が海に落ちたので観音経を念じたところ、亀が現れてこれを救助、ために造仏を発願したという(伽藍開基記「摂陽群談」所収)。藤原山蔭一族は京都吉田よしだ神社の当初の祭祀者といわれ、「今昔物語集」巻二九(亀報山陰中納言恩語)に、亀を助けて子の如無を救助してもらった山蔭中納言の話がみえ「山蔭ノ中納言ハ摂津ノ国ニ持寺ト云フ寺造タル人也」と記す。

総持寺
そうじじ

[現在地名]出石町宮内

出石神社の東寄り山際にあり、山号は応峰山、高野山真言宗に属する。本尊は十一面千手千眼観音。惣持寺とも書き、中世では一宮惣持寺、近世以降は東光院総持寺ともいう。寺伝によれば、行基が天平年間(七二九―七四九)に天日槍が新羅国から将来した聖観音を安置して応峰山総持寺と称したのに始まるとも、背後の山上にあった涅槃ねはん寺が前身で、現地に下山して総持寺と改めたともいう。平安時代以降出石神社の神宮寺となったといわれるが、現存総持寺文書(以下断りのない限り総持寺文書)では最古の至徳四年(一三八七)六月日の寂静院明仙山林寄進状には「但馬国一宮大社之惣持寺□□神宮寺」と記されており、欠失部があるものの、南北朝時代までは総持寺と神宮寺とは別の寺であった可能性もある。しかしそうであっても、総持寺の供僧も出石神社に出仕してきたものと思われる。宝徳三年(一四五一)九月七日の一和尚旭清・年行事覚舜が定めた出石大社供僧方諸役目録は、出石神社の「十六所之王子」にちなんで一六供おかれている供僧が出石神社において勤仕すべき諸役の目録であるが、毎月一七日神宮寺において勤仕する講会などもみられるものの、経所(神前であろう)における毎日大般若経の長日勤行はじめ正月―五月、七月・九月各一日の神前出仕などが記され、供僧が出石神社の祭祀に密着していたことが判明する。この供僧は総持寺の供僧であった。しかし一方、享徳三年(一四五四)一二月二一日付で風早の六大夫が土器給分の山一所を「惣持寺御本尊観音」に寄進しているように(出石神社蔵総持寺文書)、当寺本尊に対する信仰も深かった。

文明四年(一四七二)五月一六日付で守護山名氏の被官垣屋豊遠は、多年他所に移していた総持寺が「往古之蹤跡」に任せて「当所」(現在地であろう)で堂舎を再興したので、境内山林田畠以下、先々のごとく寺家進退相違あるべからずとして安堵の書下(出石神社蔵総持寺文書)を発している。

総持寺
そうじじ

[現在地名]和歌山市梶取

受陽山知足院と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。西山浄土宗檀林三ヵ寺の一で、梶取かんどり本山ともよばれる。赤松則村の孫にあたる明秀によって宝徳二年(一四五〇)開かれたという。天文一〇年(一五四一)に後奈良天皇、永禄一一年(一五六八)に正親町天皇から綸旨が出され、勅願寺となっている(「続風土記」所収総持寺文書)。しかし天正一三年(一五八五)羽柴秀吉の紀州攻めで焼失し、宝物・什器類も散失、その後紀州を領した羽柴秀長によって再興されたという。

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世界大百科事典内の総持寺の言及

【紹瑾】より

…鎌倉後期の曹洞禅僧で,大本山総持寺の開山。日本曹洞宗の太祖,諡(おくりな)は仏慈禅師,弘徳円明国師,常済大師。…

【曹洞宗】より

…43年(寛元1)越前に移り,翌44年には大仏寺(後の永平寺)を開いてここを根本道場とし,《正法眼蔵》などを示して弟子たちを養成した。道元下3世の瑩山紹瑾(けいざんじようきん)は能登に永光(ようこう)寺,総持寺(後年横浜に移転)を開き,民衆教化をめざし,その弟子峨山韶碩(がさんじようせき)の門下からは五哲あるいは二十五哲と呼ばれる多くの俊秀が出て,教団は全国的発展を遂げ,寺院数1万4700余を有する,単独教団としては日本最大の宗派となった。現在福井永平寺,横浜総持寺を二大本山としている。…

※「総持寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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