延慶三年(一三一〇)八月三日の酒井章兼売券案(寺蔵文書。以下同文書は省略)、同年八月二八日の酒井利忠売券案によると祖忍が酒井保の山野・田畑を買得、これらの地は文保元年三月二三日鎌倉幕府から安堵され(関東下知状案)、同二年一〇月二五日紹瑾に寄進されている(平氏女寄進状)。草創年は不確定だが、文保二年頃までに寺基が固まったと考えられ、この頃紹瑾が門弟を率いて当寺に本拠を移し、元応元年一二月八日紹瑾と祖忍によって洞谷山尽未来際置文が作成された。この置文の内容については疑点もあるが、当寺を紹瑾の塔頭所とすること、紹瑾・義介の嗣書、懐弉の血経、道元の遺骨、如浄の語録を安置する五老峰を建て、永久に門流が崇敬すべきこと、師檀和合すべきこと、住持職は短期間で交替し輪住制とすることなどが定められ、以降の曹洞宗教団における当寺の位置を確立させる役割を果した。
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…のち北陸に帰り,加賀大乗寺の徹通義介(てつつうぎかい)の弟子となり,修行を重ねた。その後,阿波城満寺や加賀浄住寺を開き,1313年(正和2)には能登羽咋郡酒井保の地頭滋野(しげの)信直・祖忍尼夫妻の援助をえて永光寺(ようこうじ),21年(元亨1)には定賢律師の帰依により同国櫛比荘に総持寺(1907年に横浜市鶴見に移転)を開山している。紹瑾は宗祖道元が否定的であった密教的な要素を取り入れ,祈禱を行い,武士や民衆の要求にこたえうる禅風を打ち出し,明峰素哲(めいほうそてつ),峨山韶碩(がさんじようせき)(総持寺2世)などの弟子を養育して同宗発展の基礎を築いた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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