瑩山紹瑾(読み)ケイザンジョウキン

デジタル大辞泉 「瑩山紹瑾」の意味・読み・例文・類語

けいざん‐じょうきん〔‐ゼウキン〕【瑩山紹瑾】

[1268~1325]鎌倉後期の曹洞宗の僧。越前の人。諡号しごう仏慈禅師常済大師永平寺孤雲懐奘こうんえじょうについて得度、ついで徹通義介師事し、その法を継いだ。能登総持寺を開き、永平寺とともに曹洞宗の二大本山とした。著「伝光録」「瑩山和尚清規しんぎ」など。

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精選版 日本国語大辞典 「瑩山紹瑾」の意味・読み・例文・類語

けいざん‐じょうきん‥ゼウキン【瑩山紹瑾】

  1. 鎌倉後期の曹洞宗の僧。越前の人。徹通義介に師事し、加賀の大乗寺に住む。のち能登に開いた総持寺は、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を得て官寺に列せられ、永平寺とならぶ曹洞宗の本山となった。大衆教化への道を開いて中興の祖(太祖)とされる。著に「伝光録」「坐禅用心記」など。文永五~正中二年(一二六八‐一三二五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「瑩山紹瑾」の意味・わかりやすい解説

瑩山紹瑾
けいざんじょうきん
(1268/1264―1325)

鎌倉末期の曹洞(そうとう)宗の僧。越前(えちぜん)(福井県)多禰(たね)の人。永平寺第3世で加賀(石川県)大乗寺を開山した徹通義介(てっつうぎかい)の法を嗣(つ)いで、大乗寺2世となる。能登(のと)に永光寺(ようこうじ)、総持寺(そうじじ)(のちに大本山となる)などを開き、明峯素哲(めいほうそてつ)(1277―1350)、峨山韶碩(がさんじょうせき)ら、数十人の門下を育成した。『伝光録(でんこうろく)』『信心銘拈提(しんじんめいねんてい)』『洞谷記(とうこくき)』『坐禅(ざぜん)用心記』などを著し、のちの『瑩山和尚清規(おしょうしんぎ)』を制定した。また、永光寺に伝燈院五老峯(でんとういんごろうほう)を創設し、僧団統一の基盤を固め、女人教化に努めるなど、大乗菩薩(ぼさつ)道精神に則して、永平寺の道元(どうげん)の禅風を、個性的に、そして飛躍的に発展させた。その法系は、曹洞宗約1万5000か寺のおよそ9割を占める。1877年(明治10)曹洞宗太祖(たいそ)とされ、道元(どうげん)(高祖(こうそ))と並んで、その称号が定められた。仏慈(ぶつじ)禅師、弘徳円明(こうとくえんみょう)国師、常済(じょうさい)大師などの諡号(しごう)がある。

[東 隆眞 2017年6月20日]

『『常済大師全集』全1巻(1937・大本山総持寺)』『東隆眞著『瑩山禅師の研究』(1974・春秋社)』

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朝日日本歴史人物事典 「瑩山紹瑾」の解説

瑩山紹瑾

没年:正中2.8.15(1325.9.22)
生年:文永1(1264)
鎌倉後期の曹洞宗の禅僧。日本曹洞宗第4祖で総持寺の開山。越前(福井県)生まれ。幼名は行生。8歳のとき,永平寺住持であった徹通義介のもとに参じ剃髪する。18歳で発心求道の心を新たにして,翌年,宝慶寺の寂円に参じ不退転位(悟りから退かない境地)に至る。25歳で衆生済度の誓願を発し,その3年後に阿波(徳島県)の城満寺住持となる。永仁3(1295)年,加賀(石川県)大乗寺の開山となった徹通に嗣法して,同寺最初の首座となる。同6年,大乗寺2世となり,正安2(1300)年に『伝光録』を門下に開示する。海野三郎夫妻から寄進された能登の賀島郡酒井保(石川県羽咋市酒井町)の地に永光寺を開創,文保1(1317)年入院して終焉の地とすることにした。同寺に伝灯院五老峰を建立して,入宋した道元が嗣法した中国の如浄から自身に連なる法脈を宣言し,日本曹洞宗としての教団的意識を確立した意義は大きい。 元亨1(1321)年,定賢律師より能登の鳳至郡櫛比庄(同郡門前町)の諸岳の観音堂の寄進を受け,これを禅院に改め諸岳山総持寺とし,3年後に住持職を峨山韶碩に譲る。翌年永光寺を明峰素哲に譲り,その年62歳で遷化。宗門の伝統は世寿を58歳として,瑩山の生まれを文永5(1268)年とするが,これは江戸期に現れた説。教団の拡充に意をくだき,密教儀礼や民間信仰を取り入れて曹洞禅を民衆化した。この瑩山を,宗門では高祖道元に対して太祖と称している。『伝光録』では,悟りを目的化しない道元の「不汚染の修証」から,心地の解明を積極的に求める思想へと向う展開がみられる。<著作>『瑩山清規』『信心銘拈提』<参考文献>東隆真『瑩山禅師の研究』,佐橋法竜『人間瑩山』,光地英学編『瑩山禅』10巻

(竹内弘道)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「瑩山紹瑾」の意味・わかりやすい解説

瑩山紹瑾
けいざんじょうきん

[生]文永5(1268).10.8.
[没]正中2(1325).8.15. 能登
鎌倉時代の禅僧。曹洞宗中興の祖。越前の人。幼時より仏門に入り,永平寺の孤雲懐弉 (こうんえじょう) ,徹通義介 (てっつうぎかい) に師事し,永仁3 (1295) 年,義介より道元の伝法衣を受け,義介を継いで大乗寺に住した。応長1 (1311) 年,明峯素哲に法衣を伝えて加賀の浄住寺に移り,また能登の永光寺を開いた。さらに元亨1 (21) 年,能登の僧定賢から寺を寄進され,律院を禅寺に改めてその開山となった。これが総持寺であるが,のち峨山韶碩 (がざんじょうせき) に譲って永光寺に住し,ここで死んだ。『語録』『伝光録』の著がある。後村上天皇より仏慈禅師,後桃園天皇より弘徳円明国師,明治天皇より常済大師の号を贈られた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「瑩山紹瑾」の解説

瑩山紹瑾 けいざん-じょうきん

1264/68-1325 鎌倉時代の僧。
文永元/5年10月8日生まれ。曹洞(そうとう)宗。孤雲懐奘(こうん-えじょう),徹通義介(てっつう-ぎかい)らに師事,義介の法をつぐ。能登(のと)(石川県)永光(ようこう)寺,総持寺などをひらく。門下に明峰素哲,峨山韶碩(がさん-じょうせき)ら。教団組織の基礎をきずき,道元の高祖(こうそ)に対し,太祖(たいそ)とよばれる。正中(しょうちゅう)2年8月15日死去。58/62歳。越前(福井県)出身。諡号(しごう)は仏慈禅師,弘徳円明国師,常済大師。著作に「伝光録」「坐禅用心記」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「瑩山紹瑾」の解説

瑩山紹瑾
けいざんじょうきん

1268.10.8~1325.8.15

鎌倉後期の曹洞宗の僧。能登国総持寺開祖。13歳で永平寺の懐奘(えじょう)に従い出家。懐奘死後,加賀国大乗寺の徹通義介(てっつうぎかい)について修行。その間,東福寺の慧暁,紀伊国興国寺の覚心らから臨済禅を学んだ。大乗寺,加賀国浄住寺,能登国永光寺などをへて1321年(元亨元)総持寺を開いた。門下に峨山韶碩(がさんじょうせき)・明峰素哲(めいほうそてつ)がでて,瑩山派として教団の全国的広がりの基礎を築いた。

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改訂新版 世界大百科事典 「瑩山紹瑾」の意味・わかりやすい解説

瑩山紹瑾 (けいざんじょうきん)

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百科事典マイペディア 「瑩山紹瑾」の意味・わかりやすい解説

瑩山紹瑾【けいざんじょうきん】

紹瑾(じょうきん)

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367日誕生日大事典 「瑩山紹瑾」の解説

瑩山紹瑾 (けいざんじょうきん)

生年月日:1264年10月8日
鎌倉時代後期の曹洞宗の僧
1325年没

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世界大百科事典(旧版)内の瑩山紹瑾の言及

【紹瑾】より

…鎌倉後期の曹洞禅僧で,大本山総持寺の開山。日本曹洞宗の太祖,諡(おくりな)は仏慈禅師,弘徳円明国師,常済大師。号は瑩山(けいざん)。越前多禰(たね)郡(現,福井県武生市)に生まれ,13歳で永平寺に出家し,2世孤雲懐奘(こうんえじよう)や大野郡宝慶寺開山の寂円など道元の弟子に学び,京都の禅僧や紀伊興国寺の心地覚心(しんちかくしん)らに参禅した。のち北陸に帰り,加賀大乗寺の徹通義介(てつつうぎかい)の弟子となり,修行を重ねた。…

※「瑩山紹瑾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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