日本歴史地名大系 「網引村」の解説 網引村あびきむら 兵庫県:加西市網引村[現在地名]加西市網引町田原(たわら)村の東に位置し、万願寺(まんがんじ)川の下流域に立地する。南は印南(いなみ)郡野尻(のじり)新田村(現加古川市)、東は加東(かとう)郡西脇(にしわき)村(現小野市)。中世は西河合(にしかわい)郷に属し、「阿引」とも書いた(慶長国絵図)。村の南東には糠塚(ぬかづか)山があり、これより南西に連なる山並の最高峰経(きよう)ノ尾(お)山の中腹には「峯相記」にも載せられる如意山周遍(すへん)寺がある。元亨二年(一三二二)九月日の大部庄公文尼覚性訴状(東大寺文書)によると、網引村国成名内の田地証文などを孫娘赤女が盗んだので、これを返却させ、さらに犯人赤女を盗犯・祖母敵対の罪科に処するよう奈良東大寺に訴え出ている。事件は加東郡大部(おおべ)庄(現小野市)の公文職相続に絡む王氏一族の相論のなかで発生した。江戸時代の領主の変遷は坂田の坂本(さかたのさかもと)村と同じ。 網引村あびくむら 熊本県:宇土市網引村[現在地名]宇土市網引(あびき)町西は網田(おうだ)村、南は永尾(えいのお)村(現宇土郡不知火町)、北は城塚(じようづか)村・網津(あみづ)村・下網津(しもあみづ)村に接し、東には摺墨(するすみ)山、南西には大(おお)岳がある。村の中央に猪伏(いぶし)、北に萩迫(はぎのさこ)、南に根良迫(ねらがさこ)、南西に柳迫(やなぎのさこ)、北西に歳神(としのかみ)などの字地がある(郡村誌)。慶長国絵図に村名があり、近世は郡浦手永に属した。正保郷帳によれば田方二五八石七斗余で「はへ山有」、畠方一八〇石余で「芝山有」とある。「国誌」に「小嶺村迫村白鹿村馬立村等小村有」とあり、天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑によると、宇土知行所の村で竈数九一・人数五四五・役男一二五、田七町七反六畝余・畑一〇町八反七畝余、新地田畑二町四反八畝余、永荒田四反八畝余、諸開一町五反余などと茶床がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by