竹原村(読み)たけわらむら

日本歴史地名大系 「竹原村」の解説

竹原村
たけわらむら

[現在地名]館山市竹原

その村・水玉みずたま村の北、館山平野の最奥部に位置し、田村たむら相賀そうがたきやつ横枕よこまくら田辺たべの集落からなる。滝ノ谷の字岩井作いわいさくには約四〇基の横穴墓群がある。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高八六四石余(うち田五四八石余)、同一五年の里見家分限帳によると里見家一門の薦野甚五郎の給知であった。正保郷帳では高七一四石余(うち田五一八石余)で北条藩領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)でも同藩領。天保村高帳では鶴牧藩領。天保一四年(一八四三)の忍藩領郷村高帳に村名が載り、房陽郡郷考でも武蔵忍藩領で、家数一一六。旧高旧領取調帳によると幕末には上野前橋藩領、明治元年(一八六八)長尾藩領となった。


竹原村
たけわらむら

[現在地名]吉川町稲田いなだ

吉谷きつたに村の南、安場やすば村の東に位置し、美嚢みの川上流右岸に立地する。南は宮脇みやわき村。中世は吉河上よかわかみ庄に含まれた。鎌倉時代後期の領家は大報恩だいほうおん(現京都市上京区大報恩寺)で、室町期は万里小路家であった。弘安六年(一二八三)四月日の安嘉門院庁下文(山城大報恩院文書)に竹原村とみえ、同村を除く吉河上庄が不断念仏供料として安嘉門院へ寄進され、当村は中将局の知行で、その死後は上庄へ付けられることになっていた。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)では歓喜光かんきこう(現京都市左京区)領で、恵慎が知行していた時の当村の年貢は二千五〇〇疋(二五貫文)で、当時は法性寺前中納言雅藤の知行と記載されている。文保元年(一三一七)一二月一九日(二九日か)、預所円能は石峯しやくぶ(現神戸市北区)の跡地であった当村奈良井ならいの浄信名の増田一段一五代と荒野を石峯寺修理料田として寄進している(預所円能寄進状「微考録」石峯寺文書など)


竹原村
たけはらむら

[現在地名]吉田町竹原

福原ふくばら村の東北に位置し、南は小山おやま村。西から北にかけての村境を可愛えの川が流れる。「芸藩通志」に「今当村・国司・常友三村をたけ原庄とす、当村広十三町、袤五町余、東南は山連り、西北は平田にて大川あり、二水西南より来りこれに入る」とある。可愛川は度々の氾濫で流路が変わり、村内ほとんどがその影響を受けた。

「和名抄」記載の高宮たかみや竹原たかはら郷の地で、中世毛利氏の所領となった吉田庄に含まれていたらしい。すなわち文永七年(一二七〇)七月一五日付で毛利経光(寂仏)が時親に与えた譲状(毛利家文書)に「あきの国よしたの庄」があり、時親は延元元年(一三三六)吉田庄に下向しているが、この吉田庄は永和二年(一三七六)五月の毛利元春自筆事書案(同文書)によれば「安芸国吉田庄四郷申者、吉田郷・麻原郷・豊島郷・竹原郷是也」とある。


竹原村
たわらむら

[現在地名]小浜市上竹原かみたわらせき千種ちぐさ一―二丁目・四谷よつや町・後瀬のちせ町・大手おおて町・一番いちばん町・城内じようない一―二丁目

みなみ川・きた川両河川に囲まれた地域を占め、南川の西は小浜城下、北西は北川を挟んで小浜城、東は府中ふちゆう村。北東に北川を挟んで当村の枝村丸山まるやまがある。上竹原村(天保郷帳ほか)ともよばれた。慶長年間(一五九六―一六一五)の小浜城築城で城地が竹原から割かれ、また村の西側大部分は酒井氏入部以後、侍屋敷地となり、農村集落は東側にわずかにあるにすぎない。なお江戸時代、当地および北川右岸域を含めて雲浜うんぴんとよんだ。


竹原村
たけはらむら

[現在地名]岡山市竹原

楢原ならばら村の南、新庄しんじよう山南東に集落がある。中世、一帯には竹原庄が成立していた。寿永二年(一一八三)一一月四日の後白河院庁下文(賀茂別雷神社文書)によると、源平合戦の影響でもたらされた、竹原庄などの京都上賀茂社領庄園の年貢米運上船に対する点定、水手徴発、路次の狼藉を停止して、年貢米を上納するよう備前国在庁官人に命じている。同三年四月二四日源頼朝は前掲下文に任せて武士の狼藉停止を命じている(「源頼朝下文案」同文書)。元亨二年(一三二二)二月一一日の右京権大夫藤原某奉書(古文書集)によると、大和大安だいあん(現奈良市)領の上東郡竹原郷地頭職が根岸季兼に補任されている。


竹原村
たけはらむら

[現在地名]茂木町竹原

町田まちだ村の南、那珂川右岸に位置し、集落は同川に注ぐ竹原川沿いに、上・中・下・小幡おばたの四組に分れて形成される。慶安郷帳では芳賀郡に記されるが、寛文四年(一六六四)の烏山藩領知目録では那須郡内とある。はじめ烏山藩領、延宝年間(一六七三―八一)幕府領、天和二年(一六八二)および元禄元年(一六八八)の両年は下総関宿藩領、のち幕府領、享保一一年(一七二六)再び烏山藩領となり幕末に至る。寛永一三年(一六三六)の堀親良遺領村目録(神奈川県堀直敬文書)では高一五四石余。慶安郷帳では田方四九石余・畑方一〇五石余。正徳元年(一七一一)の村明細帳(川堀ヨシ子文書)によると反別一七町七反余、うち畑屋敷一〇町一反余、御林三ヵ所、御蔵屋敷一、鉄炮一で、先年より御用人馬はいずれにも出していなかった。


竹原村
たけはらむら

[現在地名]若宮町竹原

高野たかの村の北東、犬鳴いぬなき川の左岸、同川支流の山口やまぐち川と黒丸くろまる川が合流する辺りに形成された河岸段丘地に位置する。東は金丸かなまる村。「続風土記」は枝郷として原崎はらさき村をあげる。弘安八年(一二八五)三月日の水原若宮社村々相撲次第(町村書上帳/鎌倉遺文二〇)では、若宮八幡宮の相撲出仕役の一〇番に「竹原」がみえる。宗像社家文書惣目録(宗二)に「筑前国鞍手郡若宮庄竹原・金丸名主合屋代請文 一通 小河大膳輔明請文 応永十三年五月廿二日」とある。同目録の但書の記述によると、宗像氏は当地などを代官請していたが、竹原・金丸名は大内盛見の干渉により返付せざるをえず、新たに代官となった合屋氏は幼少のため、又代官の小河輔明が応永一三年(一四〇六)五月二二日に請文を提出している。


竹原村
たけはらむら

[現在地名]長泉町竹原

本宿ほんじゆく村の東方の平野部に位置し、北は下土狩しもとがり村、南は伏見ふしみ(現清水町)。元亀三年(一五七二)六月六日、北条氏はいずみ(現清水町)に堤を築くため、「伏見・竹原・土狩」の百姓に同郷芝切りを命じている(「北条家朱印状」杉本文書)。この泉郷築堤への関与を通じて「竹原村」は泉河(現柿田川)の「川藻」を田の肥料として採取する権利を主張するに至り泉郷と相論に及ぶが、天正五年(一五七七)三月一〇日、北条家は泉郷側の権利を認めている(「北条家朱印裁許状」同文書)


竹原村
たけはらむら

[現在地名]南陽市竹原

東は和田わだ村、西は梨郷りんごう村に接する。もと梨郷村のうちで、寛文年間(一六六一―七三)独立したというが、天保郷帳には村名がない。字宮城みやぎに須恵器を製造した登窯跡があり、宮内みやうち村と大塚おおつか(現東置賜郡川西町)を結ぶ道沿いに鎌倉―室町期の板碑や経筒が多くみられ、阿弥陀堂裏の正元元年(一二五九)六月一日銘の大日板碑は高さ二六六・七センチで、紀年銘を有する板碑としては県内最古。曹洞宗龍雲りゆううん院境内の嘉暦二年(一三二七)三月の大日板碑は高さ二四八・五センチで、いずれも県指定文化財。


竹原村
たけはらむら

[現在地名]大野見村竹原

永野ながの村の西、竹原川・栂の川つがのかわ川・古谷の川ふるやのかわ川が四万十しまんと川に合流するところにある平地の村。栂の川川沿いは梯子田(棚田)が多く、宮本みやもとなど五ヵ所に灌漑用の井堰がある。天正一六年(一五八八)の津野大野見村地検帳における村域の地積は二〇町三反余と推定され、中興なかおく・竹原・栂の川・道金どうきんなどの諸名があったことを伝える。津野氏領で在地の給人は南部源介ら三人。


竹原村
たけはらむら

[現在地名]美杉村竹原

雲出くもず川と八手俣はてまた川との合流地点にあり、東は八手俣村、北は真見まみ(現白山町)に接する。村内中央部を雲出川沿いの街道が南家城みなみいえき(現白山町)から南西へ通じている。天文年間(一五三二―五五)と思われる沢兵部大輔宛の北畠天祐(晴具)の四月一六日付書状(沢氏古文書)に竹原井関とみえ、当村近辺に井堰が開削されていたことをうかがわせる。近世は慶長一三年(一六〇八)以降津藩領で元和五年(一六一九)以降和歌山藩白子領。


竹原村
たけわらむら

[現在地名]松山市竹原町たけわらまち・竹原二―四丁目・空港通くうこうどおり一丁目

松山平野の西平坦部に位置する農村。東は藤原ふじわら村、西は南江戸みなみえど村・針田はりた村、南は小栗おぐり村・針田村、北は南江戸村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の温泉郡の項に「竹原村」とある。

古代には温泉郡立花たちばな(和名抄)に属したと考えられる。


竹原村
たけはらむら

[現在地名]中野市大字竹原

東は夜間瀬よませ川で夜間瀬村と境し、北はかけをもって深沢新田ふかさわしんでん村、西は金井かない若宮わかみや、南は一本木いつぽんぎの各村と接している。

初見は慶長七年(一六〇二)森忠政検地で、村高三五七石七斗二升六合とあり、その後開拓が急速に進んだ。田方に対し畑方の多いのが特色である。

夜間瀬川の乱流した姿が中河原なかかわら・南河原・荒川あらかわ等の地名に残っている。今は上組(和手わで・新田)・下組(しも・荒川)の二組で、江戸時代はこの大組から名主を出して複数制で自治を行った。


竹原村
たかばるむら

[現在地名]神埼町大字志波屋しわや字竹原

背振せふり山地より南へ延びた舌状丘陵地と城原じようばる川の中間地帯にあたる。北は志波屋村、南は馬郡まぐい村である。

正平一六年(一三六一)一一月二日の興澄寄進状(仁比山神社文書)

<資料は省略されています>

とある。「九州治乱記」によると元亀三年(一五七二)勢福寺せいふくじ城主江上氏に招かれた執行氏(もと伴氏、櫛田宮の執行職)はこの村に城館を構え、戦国末期に種兼の活躍で執行氏の名を後世に残した。


竹原村
たけはらむら

[現在地名]北山村竹原

七色なないろ村の西、北山川右岸にあり、北は大和国佐田さだ村・浦向うらむかい(現奈良県吉野郡下北山村)に接する。「続風土記」は「多迦波良」の訓を付する。村の西南部に小名相須あいすがある。「太平記」巻五(大塔宮熊野落事)に、大塔宮の一行が竹原八郎入道の甥戸野兵衛の館に立寄った記事があり、慶長(一五九六―一六一五)頃まで竹原氏が当村一帯を領知していたと伝える(続風土記)

慶長検地高目録によると村高二二八石余、小物成六・三一二石。新宮北山組に属し、近世後期の「新宮領分見聞記」に高九五石余、家数七五とあるのは、承応三年(一六五四)頃に花知はなじり(現三重県熊野市)・七色村に高分したことによる(新宮藩御勘定方旧記「和歌山県史」所収)


竹原村
たけはらむら

[現在地名]龍野市揖西町竹原いつさいちようたけはら

小畑おばたけ村の西に位置し、揖西郡に属する。西は赤穂郡と境する。集落は山裾の扇状地に形成される。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高四六八石余、高三八七石余。正保郷帳では田方三四五石余・畑方四一石余。元禄郷帳では高四〇五石余。宝暦年間(一七五一―六四)の龍野藩領分明細帳(矢本家文書)でも同高で、反別は田方二四町五反余・畑方五町一反余、本免四ツ七分・池新田三ツ九分・古新二ツ五分、山役米三斗五升・山札役銀一三匁六分余、家数六九。


竹原村
たけはらむら

[現在地名]上志比村竹原

越前中央山地の北麓に位置し、南西は石上いしがみ村、南東は藤巻ふじまき村。北を勝山街道が通る。枝村に蓑輪みのわがあった(越前地理指南)

慶長三年(一五九八)七月一三日付越前国吉田郡志比庄之内竹原村御検地帳(「上志比村史」所収)があり、上田七町九反余で一四二石六斗五升、中田一町五反余で二一石九斗四升、下田一町六反余で二五石七斗一升、下荒田一町四反余で一九石六斗三升、上畠四町一反余で六二石九升、中畠四反余で五石六斗二升、下畠九反余で一二石六斗六升、屋敷三反余で六石一斗、桑畑一町五反余で二五石六斗、上畠荒九反余で一一石九斗九升、下畠荒三町七反余で四五石七斗七升、田畠屋敷合二四町六反余で分米合三八〇石七斗五升であり、近隣の藤巻・石上・中島なかじまいちの諸村からの出作人の記載がある。


竹原村
たけばるむら

[現在地名]蘇陽町東竹原ひがしたけばる

近世には川走かわばしり川の東に東竹原村、西に西竹原村が並ぶ。明治九年(一八七六)の合併により成立した村名。東は草部くさかべ村・矢津田やつだ(現高森町)、西は梶原かじわら村・旅草たびぐさ村、南は高畑たかばた村に接する。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に「一所たけの原二百文 まめ一斗」とみえる。


竹原村
たけはらむら

[現在地名]会津高田町勝原かつはら

みや川中流右岸にあり、南東は西勝さいかち村、南西は上中川かみなかがわ村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三一八石余。寛文五年(一六六五)の「高田組郷村万改帳」では本田高三一八石余、免六ツ六分八毛余、家数三四、竈四二、男九九・女七三、馬一八(うち五調一)、藁細工で知られ、草履・草鞋作りが盛んであった。文化一五年(一八一八)の村日記では高三七八石余。


竹原村
たけはらむら

[現在地名]穴水町竹太たけだ

よしいけ山下方にあり、南東は太田川おたがわ村。慶長七年(一六〇二)の鵜川天神堂奉加札(能都町菅原神社蔵)に「弐表 しほ 竹原惣中」とみえる。正保郷帳では高一一五石余、田方四町・畑方三町七反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一五〇石、免四ツ八歩、小物成に山役四八匁、猟船櫂役五匁(出来)がある(三箇国高物成帳)。同一一年の百姓家数七で、持高内訳は六四石余一、二六石余一、一〇石前後五(「草高免付百姓数帳」泉原文書)


竹原村
たけばらむら

[現在地名]勝山町竹原

旭川から西岸の標高六〇〇メートルの高原地帯。山に囲まれ南・西は神庭かんば村、東は旭川の谷を隔てて大庭おおば山久世やまくせ村、北は高原の続きにある菅谷すがたに村・星山ほしやま村。正保郷帳に村名がみえ、高五五石余で、畑方のみ。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では村位は下、改出高一七石余・開高八斗余。


竹原村
たかわらむら

[現在地名]阿蘇町竹原

西は蔵原くらばる村、東は西町にしまち村に接する。中世は上竹原かみたかわら郷・下竹原郷に分れており、上下の記載のない竹原郷は上竹原郷を意味した。慶長国絵図に村名がみえ、近世は内牧手永に属した。正保郷帳では田方三千二一七石八斗余・畠方一千二〇石九斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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