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緒方郁蔵 おがた いくぞう

朝日日本歴史人物事典の解説

緒方郁蔵

没年:明治4.7.9(1871.8.24)
生年:文化11(1814)
幕末明治期の蘭方医。備中国後月郡簗瀬村(岡山県芳井町)の大戸万吉の長男。号は研堂。江戸の坪井信道の蘭学塾に学んでいたが,同塾の先輩緒方洪庵が天保9(1838)年大坂で開いた適塾に入門し,洪庵の陰で黙々として塾を支えた。洪庵と義兄弟の契りを結び,緒方姓を名乗った。ドイツのフーフェランドの内科書を洪庵と共訳し,『扶氏経験遺訓』全30巻を安政5(1858)年に出版。のち自らも独笑軒塾を開いた。嘉永2(1849)年土佐藩に招かれ蘭学を教授。明治2(1869)年大坂医学校・病院の取建掛となり,設立後は大学少博士に任ぜられ,主として翻訳に従事した。訳著書に『散花錦嚢』『内外新法』『日新医事抄』がある。<参考文献>中山沃『岡山の医学』,古西義麿「緒方郁蔵と独笑軒塾」(『日本洋学史の研究』4巻)

(中山沃)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

緒方郁蔵
おがたいくぞう
(1814―1871)

幕末の蘭方(らんぽう)医学者。備中(びっちゅう)国(岡山県)の人。父は大戸萬吉という。名は惟嵩(これたか)、字(あざな)は子文、通称は郁蔵、研堂または独笑軒と号した。江戸の坪井信道(しんどう)の塾で緒方洪庵(こうあん)を知り、洪庵が大坂・瓦(かわら)町に適々斎塾を開いたのを知り入塾、『扶子(ふし)経験遺訓』の共訳者となり、義兄弟の約を結んで洪庵を助けた。1843年(天保14)適塾が過書(かしょ)町(大阪市中央区北浜3-3)に移転すると、郁蔵は瓦町に独笑軒塾(北の適塾に対して南塾とよばれた)を開き、洪庵の除痘館(じょとうかん)事業に協力した。葭島(よしじま)刑場においての人体解剖勉強を両方の塾生の共同で行った記録もある。郁蔵は土佐藩の嘱託を受けて兵書の翻訳と書生の教育にあたった。1869年(明治2)大坂医学校開設にあたっては取締である緒方惟準(これよし)(洪庵の嗣子(しし))の下で副校長格であり、大学少博士・正七位の辞令を受けた。『大坂医学校官版日講記聞』第1号の序文は郁蔵による。著書に、牛痘種痘の解説本『散花錦嚢(さんかきんのう)』ほか出版されたもの3編、写本で流布したもの10余編がある。政治家緒方竹虎(たけとら)は孫の一人である。[藤野恒三郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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