瓦町(読み)かわらまち

日本歴史地名大系 「瓦町」の解説

瓦町
かわらまち

[現在地名]鳥取市瓦町・行徳ぎようとく南町みなみまち栄町さかえまち今町いままち一―二丁目

ふくろ(旧袋川)に架かる智頭ちず橋を越えて橋際より智頭往来を南西に進み、鍛冶かじ川に架かる土橋までの道筋に沿う両側町。南は今町一丁目、東は川外大工かわそとだいく町、西は品治ほんじ町、北は袋川を隔てて武家屋敷藪片原やぶかたはらを望む。元和五年(一六一九)城下町拡張に伴う町割のとき、町人地四〇町のうち上構二〇町の一町として起立された(因幡志)。「鳥府志」によると、この地に初めて瓦師が居住したことによって町名が付けられたという。寛永一一年(一六三四)の竈数一四、同町内外に三軒(因幡志)。安永七年(一七七八)の家数六三、表口間数合せて一五九間半、町役負担三二人余、賦課比率の等級は下の下に定められる。

瓦町
かわらまち

[現在地名]博多区上川端町かみかわばたまち祇園町ぎおんまち

社家しやけ町の南方にあり、博多市中の南端を占める。町屋は櫛田くしだ宮境内の南側を走る通り(祇園町の通り)の南側、およびこの通りから南に折れ住吉すみよし村に向かう通りの両側に発達。東方は祇園町。祇園町の通りは当町から西に向かうと、那珂なか川の分流(博多川)に架かる板橋(水車橋)を渡って中洲に入り、さらに那珂川に架かる板橋(春吉橋)を渡って春吉はるよし村に通じていた(福岡博多近隣古図・「続風土記附録」「続風土記拾遺」など)。元禄三年(一六九〇)の家数四三(続風土記)。明和三年(一七六六)には家数四七・間数一七一間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数五五(博多店運上帳)

瓦町
かわらちよう

[現在地名]岡山市中央町ちゆうおうちよう南中央町みなみちゆうおうちよう

外堀の西にあり、西側は西にし川。庭瀬にわせへの道を挟み東西に発達した両側町。城下への出入口の町で、俗に庭瀬口という。東は道と細堀を隔て大雲寺だいうんじ町・浜田はまだ町、南は七軒しちけん町武家屋敷、向いは大供だいく村・武家屋敷、北も武家屋敷。寛永城下絵図・慶安城下絵図には町名はみえず、延宝二年(一六七四)御触留(国富文書)に瓦町とある。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によれば町域は七反七畝余、うち御免地番屋敷三歩余、徳米八石一斗余・口米一斗余。

瓦町
かわらまち

[現在地名]掛川市掛川 瓦町

掛川宿一三町の一つで、西にし町の中央から北に延びる路地の両側町。東はなか町裏のしん丁、南から西は西町、北はさか川に架かる板橋をもって掛川城の城西しろにしに至る。掛川築城当時大工頭の支配下にある瓦師の屋敷があったのが町名の由来といわれ、当町の瓦師善治は城主より代々諸役を免除されていたが、よい土が採れなくなったので南西郷みなみさいごう村に移った(掛川誌稿)。正保城絵図では町屋としてみえ、宝永(一七〇四―一一)頃の懸河城郭図に瓦町と記される。延享二年(一七四五)の役家高人馬覚(問屋要用)では町並は間口一〇九間余、歩数二千三〇八歩、享保三年(一七一八)歩行役町となり、歩行役家九軒・人足九人。

瓦町
かわらまち

[現在地名]和歌山市田中たなか町三―五丁目

田中町の東に続き、新内あろち村・太田おおだ村に接する。「紀伊名所図会」に、当町で生産した瓦をおお橋東詰に集めて諸国に運送したとある。在中作方諸事覚書(土屋家蔵)によれば、瓦町のうち「西ハ七右衛門重兵衛屋敷限リ、北東南ハ田地限リ」の地が町方支配の高付地であったが、高二三石余は太田村の高に含まれていた。「続風土記」に東瓦ひがしかわら町・西瓦町の二町がみえる。文政一三年(一八三〇)東瓦町を二町に分け、西瓦町に続く地を東瓦町一丁目、南へ折れる地を同二丁目とした(「御触書写」道成寺文書)

瓦町
かわらまち

[現在地名]萩市大字瓦町

東西に通る御成道を挟む両側町で、西は呉服ごふく町弐丁目、東は西田にしだ町、北は恵美須えびす町弐丁目などに続く町人町。南は新堀しんぼり川を隔てて江向えむかい

町名は往古瓦師が居住したことに由来するという(萩諸町之旧記草案)。宝暦元年(一七五一)の萩大絵図別冊文書によれば、町の長さ三一一間、家数九七、うち本軒二六、店借六四、貸屋七で、ほかに蔵一六ヵ所があった。

瓦町
かわらちよう

中京区高倉通二条下ル

南北に通る高倉たかくら(旧高倉小路)を挟む両側町。南側を押小路おしこうじ(旧押小路)が通る。

平安京の条坊では、町の西側が左京三条四坊一保一町、同じく東側が同八町。平安中期以降は二条高倉小路南の地。

町域の東半は、平安時代前期には官衙町の一つ雅楽町にあたり(拾芥抄)、室町時代初期には足利尊氏館の敷地、後の等持寺であった(太平記・康富記)。また西半は、平安時代後期から鎌倉時代後期にかけて、二条内裏(拾芥抄)、後に二条高倉殿(続史愚抄・仁部記)の敷地であった。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「高倉かわら町」、元禄末期洛中絵図に「高倉瓦之丁」とあり、それ以降変化はない。

瓦町
かわらまち

[現在地名]松阪市白粉おしろい

かや町と新瓦町の間にある。常教じようきよう寺に沿う。「権輿雑集」に、「古田家中の屋敷跡、寛文年中瓦師富嶋吉兵衛と云者、尾張より来住し、子孫此職相続故瓦町と云」とみえ、松坂城下建設時以来の町ではなく、蒲生氏郷・服部一忠のあとを受けて松坂城主となった古田重勝・同重治らの屋敷が、やがて跡地となり、寛文年間(一六六一―七三)以降町場となったとする。

瓦町
かわらまち

[現在地名]西尾市瓦町

天王てんのう町北側の通り。町名から推して、初期に瓦師が居住していたと思われる。「瓦町 原八左衛門」と刻んだ鯱瓦が現存する。正保二年(一六四五)から万治二年(一六五九)までに作られたと推定される参州西尾城絵図之覚には、すでに瓦町の名称が記され、三浦城主時代の町人屋敷図には、妙満みようまん寺の東隣に瓦師跡がある。

瓦町
かわらまち

淡路町あわじまち通の南に東西に延びる瓦町通の両側町。東の東横堀ひがしよこぼり川側から一丁目と二丁目があり、一丁目の北東端から同川に思案しあん橋が架かる。一丁目には炭屋善五郎、二丁目には米屋太兵衛と両町とも豪商が住んだ町であった。延享版「難波丸綱目」は瓦町の所付で象牙屋・琉球表、能の脇音岩根庄右衛門を載せる。

瓦町
かわらまち

[現在地名]奈良市西木辻にしきつじ

木辻村中きつじむらなか町の西に所在。「奈良曝」にはみえず、「奈良坊目拙解」によれば、興福寺領木辻村組のうちで屋地子が課せられた。寛永年間(一六二四―四四)に四、五軒が瓦竈を設けたのが町の始まりで、元禄一一年(一六九八)の家数三〇、竈数六九。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の瓦町の言及

【深草】より

…伏見築城に際し,播磨・河内から技術者が入来してその技術も進歩すると同時に,瓦作りも行われるようになり近世期まで継続した。正徳年間(1711‐16)には150軒もの家が土器生産に従事しており,このほか瓦,伏見人形も作っていたことが《京都御役所向大概覚書》によって知られ,瓦町の町名は今も残っている。このほか深草郷内を流れる鴨川,七瀬川は,醍醐三宝院の支配であったことが《醍醐寺文書》(貞治3年(1364)9月20日付請文)によってわかる。…

※「瓦町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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