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緒方竹虎 おがた たけとら

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

緒方竹虎

朝日新聞社の主筆、副社長を務め、戦中の1944年、国家の情報宣伝を行う情報局の総裁に就任した。戦後、公職追放を受けたが、解除された後、衆院選に当選。第4次吉田内閣の内閣官房長官に就任し、保守本流形成に尽くした。首相候補とも言われたが、56年に急死した。

(2009-07-24 朝日新聞 朝刊 3社会)

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百科事典マイペディアの解説

緒方竹虎【おがたたけとら】

新聞記者,政治家。早大卒業後東京朝日新聞社に入社二・二六事件で同社を襲った反乱軍と対決した話は著名。1943年副社長となり,1944年政界に転身。情報局総裁,小磯内閣および戦後の東久邇内閣で国務相となる。
→関連項目緒方貞子自由民主党

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

緒方竹虎 おがた-たけとら

1888-1956 大正-昭和時代のジャーナリスト,政治家。
明治21年1月30日生まれ。朝日新聞にはいり,主筆などをへて昭和18年副社長。19年政界に転じ,小磯,東久邇(ひがしくに)内閣の国務相兼情報局総裁をつとめる。公職追放解除後,27年衆議院議員(当選3回)となり,29年自由党総裁。保守合同をすすめ30年自民党結成にくわわり総裁代行となる。昭和31年1月28日死去。67歳。山形県出身。早大卒。著作に「人間中野正剛」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

おがたたけとら【緒方竹虎】

1888‐1956(明治21‐昭和31)
大正・昭和期の言論人,政治家。山形市で生まれ,福岡で育つ。1911年早大専門部卒業後,朝日新聞社入社。編集局長,主筆,常務・専務理事をへて43年副社長となる。この間,二・二六事件の際単身,同社を襲った反乱軍と対決した話は有名。44年小磯国昭内閣の国務相兼情報局総裁,翌年東久邇稔彦内閣の国務相兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任。戦後,45年12月A級戦犯に指名された(1947年9月解除)。46年8月公職追放されるが,51年解除され,政界に復帰。

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大辞林 第三版の解説

おがたたけとら【緒方竹虎】

1888~1956) ジャーナリスト・政治家。山形県生まれ。早大卒。朝日新聞社副社長。第二次大戦後、国務大臣。吉田茂のあとを受け自由党総裁。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

緒方竹虎
おがたたけとら

[生]1888.1.30. 山形
[没]1956.1.28. 東京
ジャーナリスト,政治家。福岡で育ち,1911年早稲田大学卒業後,朝日新聞社に入社。若くして主筆となり 43年には副社長に就任。反軍的姿勢を貫いて,二・二六事件の際『朝日新聞』も緒方も反乱軍の攻撃目標となった。戦争末期の 44年退社して入閣し,戦後追放された。追放解除後は吉田内閣で要務歴任。しかも 54年吉田茂の引退に際しては主導的役割を果し,自由民主党総裁代行委員に就任したが,まもなく急死した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

緒方竹虎
おがたたけとら
(1888―1956)

ジャーナリスト、政治家。山形県生まれ。早稲田(わせだ)大学専門部政経科を卒業して1911年(明治44)朝日新聞社に入社し、政治部記者となる。欧米留学後、編集局長、1934年(昭和9)主筆、常務取締役、1936年専務取締役に就任。その後、重要産業統制委員、内閣情報部参与を経て、1940年新体制準備委員、1943年朝日新聞副社長となるが、1944年退社して小磯(こいそ)・米内(よない)内閣の国務大臣兼情報局総裁。1945年鈴木貫太郎内閣の内閣顧問、貴族院議員。東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣では国務大臣、内閣書記官長、情報局総裁を兼任して敗戦処理にあたる。緒方は国粋主義者の中野正剛(せいごう)とは大学・記者時代からの親友で、自身、国家主義者でもあった。戦後、その経歴から戦犯容疑者となり、1946年(昭和21)公職追放となる。1951年追放解除され翌1952年自由党から衆院選に当選(福岡1区)。第四、五次吉田茂内閣の副総理・官房長官。1954年吉田退陣後、自由党総裁に就任。翌1955年保守合同に党を率いて参加し、自由民主党の総裁代行委員となり、鳩山一郎(はとやまいちろう)首相の後継に予定されていたが心臓病で急逝した。69歳。著書に『人間中野正剛』(1951)がある。[荒 敬]
『高宮太平著『人間緒方竹虎』(1958・四季社) ▽嘉治隆一著『緒方竹虎伝』(1962・時事通信社) ▽栗田直樹著・日本歴史学会編『人物叢書 緒方竹虎』新装版(2001・吉川弘文館) ▽三好徹著『評伝緒方竹虎──激動の昭和を生きた保守政治家』(岩波現代文庫) ▽伝記刊行会編『緒方竹虎』(1963・朝日新聞社)』

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世界大百科事典内の緒方竹虎の言及

【自由党】より

…党内に民主化同盟ができ(52年10月),自由党分党派が日本自由党を結党(53年11月),鳩山が離党し復党し再離党して日本民主党を結党(54年11月)する等の経過の中で自由党は第4次,第5次吉田内閣を単独政権として樹立するが,53年4月の選挙で過半数を割り,55年2月選挙で第二党となる。1954年12月,吉田内閣は総辞職,自由党総裁には緒方竹虎が就任。55年11月自由党は民主党と合同,保守合同として自由民主党を誕生させた。…

【繆斌工作】より

…太平洋戦争末期の日中和平工作。小磯国昭内閣成立直後の1944年8月,元《朝日新聞》北京駐在記者田村真作は緒方竹虎情報局総裁らを通じて小磯首相を動かし,繆斌を仲介として重慶の中華民国政府(蔣介石総統)との和平工作の推進を提案した。かつて中国国民党中央委員などを務めた繆は,日中戦争勃発後に日本軍が華北につくった親日団体新民会副会長となり,汪兆銘政権が成立すると立法院副院長となったが,蔣政権との接触が露見して44年当時は考試院副院長の閑職にあった。…

※「緒方竹虎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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