日本大百科全書(ニッポニカ) 「練兵館」の意味・わかりやすい解説
練兵館
れんぺいかん
幕末、江戸における三大道場の一つ。神道無念(しんとうむねん)流斎藤弥九郎(やくろう)善道(よしみち)の道場で、北辰一刀(ほくしんいっとう)流千葉周作(しゅうさく)の玄武(げんぶ)館、鏡新明智(きょうしんめいち)流桃井春蔵(もものいしゅんぞう)の士学(しがく)館と並び称された。1820年(文政3)恩師岡田十松吉利(じゅうまつよしとし)の没後、弥九郎は嗣子利貞(ししとしさだ)を補佐して道場撃剣(げっけん)館の経営に専念してきたが、6年後の26年春、同門の江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)らの援助で独立し、九段坂下俎橋(まないたばし)畔に錬兵館をおこした。館名は、兵学の師である平山子龍(しりゅう)の屋号「錬武堂(れんぶどう)」にちなんで命名されたものという。38年(天保9)飯田町(いいだまち)の火事で道場は類焼の厄にあったが、再度江川らの援助で坂上の麹町(こうじまち)三番丁(現在、靖国(やすくに)神社境内)に移転し、再建に尽力した結果、しだいに剣名も高まり、41年水戸弘道(こうどう)館の落成式に招かれ、百合元昇三(ゆりもとしょうぞう)ら門人を率いての撃剣指南に成功し、一躍有名となった。また長男の新太郎(しんたろう)、三男の歓之助(かんのすけ)ともに資質に恵まれて若手名剣士の評判が高く、全国から入門、入塾者が集まった。
[渡邉一郎]