妙法院
みょうほういん
京都市東山区妙法院前側(まえかわ)町にある天台宗門跡(もんぜき)寺で、山門五箇室門跡の一つ。もと比叡山西塔(ひえいざんさいとう)妙香院に起源し、1160年(永暦1)法住寺離宮のそばに日吉山王(ひえさんのう)を勧請(かんじょう)したとき、護持僧として招かれた妙法院昌雲(しょううん)の住房として移し、これを新日吉(いまひえ)と称した。1164年(長寛2)後白河(ごしらかわ)法皇が法住寺殿内に建てた蓮華王院(れんげおういん)と、法住寺とを昌雲が管掌した。後を継いだ実全が1202年(建仁2)天台座主(ざす)となり初めて妙法院の号をたてた。高倉(たかくら)天皇第2子尊性法親王(そんしょうほっしんのう)が入寺し、1227年(安貞1)天台座主となり、綾小路(あやのこうじ)小坂に移建され、天台座主三門跡の一となる。以来法親王が入り、新日吉門跡、皇門跡、綾小路門跡などと称され、法住寺・蓮華王院の法燈(ほうとう)を嗣(つ)いだ。1467年(応仁1)の兵火で焼失後、1586年(天正14)豊臣(とよとみ)秀吉が法住寺跡に方広寺を創建、1614年(慶長19)豊臣秀頼(ひでより)によって鋳造された梵鐘(ぼんしょう)の銘文が徳川家康によって責められる。その紛議後、家康は常胤(つねたね)法親王を迎えて、1615年(元和1)ふたたび現在地に移転し、方広寺豊国廟(ほうこくびょう)と蓮華王院をも管領させ、寺領一千六百十三石を与え、寺域22万余坪を有し栄えた。現在は本堂、寝殿、護摩(ごま)堂、唐門(からもん)、大書院、小書院のほか、境外仏堂の蓮華王院(三十三間堂)などがすばらしい。庫裡(くり)(国宝)は桃山時代の豪壮な建築である。絹本着色後白河法皇御影、秋草蒔絵(まきえ)文台(ともに国重要文化財)、狩野永徳(かのうえいとく)・光信(みつのぶ)らの筆とされる金碧(きんぺき)障壁画のほか、多くの古文書類がある。
[塩入良道]
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妙法院【みょうほういん】
京都市東山区にある天台宗の寺で,新日吉(いまひえ)門跡ともいい,天台三門跡の一つ。本尊は普賢菩薩。最澄の開創と伝えるが明らかではない。1164年後白河法皇が法住寺内に蓮華王院(三十三間堂)を建立,のち新日吉社を現地に建立したときに法住寺,蓮華王院と合わせて管掌させ,妙法院と号した。徳川家康の帰依により栄えた。大書院,玄関は東福門院入内のときに内裏(だいり)に建てられた御殿の移建と伝え,狩野派の襖絵(ふすまえ)がある。庫裏(くり)は1604年建築,近世初期の代表的庫裏とされる。ポルトガル国印度副王信書も知られ,また妙法院史料がある。三十三間堂,方広寺は現在も妙法院の管掌下にある。
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みょうほう‐いん メウホフヰン【妙法院】
京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺。山号は南叡山。延暦年間(
七八二‐八〇六)最澄が開創。もと延暦寺の
別院で比叡山三千坊の一つ。後白河法皇が蓮華王院(三十三間堂)を建て日吉
(ひえ)神社をまつった時、宮寺とされ移される。尊性法親王が入山以来門跡寺となり、天台座主三院の一つ。三十三間堂、方広寺を管理。
幕末、三条実美ら七人の
公卿が会して長州に都落ちした。庫裏
(くり)、千手観音坐像(湛慶作)、ポルトガル国印度副王信書などは国宝。日吉門跡。新日吉
(いまひえ)門跡。皇居門跡。
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妙法院
みょうほういん
京都市東山区にある天台宗の門跡寺院。日吉門跡,皇居門跡ともいう。延暦年間 (782~806) 最澄の開創と伝える。もと比叡山にあり,慶長 19 (1614) 年豊臣,徳川両家の紛争が生じたとき,寺を照高院に移したが,それが現在地である。蓮華王院本堂 (→三十三間堂 ) はこの寺に属し,国宝,重要文化財を多数蔵する。
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みょうほういん【妙法院】
京都市東山区にある天台宗の門跡寺院。山号は南叡山。皇后門跡,新日吉(いまひえ)門跡とも称する。9世紀前期,延暦寺西塔の宝幢院検校恵亮(えりよう)を初代とし,天台座主快修のころから妙法院を称したという。快修の甥に当たる天台僧昌雲は,後白河法皇が創立した法住寺御所内の蓮華王院(三十三間堂)鎮守新日吉社の検校となり妙法院と号し,その門弟実全があとをついで天台座主となり,京都綾小路に自坊をかまえ正式に妙法院の号をたてた。
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