劔神社(読み)つるぎじんじや

日本歴史地名大系 「劔神社」の解説

劔神社
つるぎじんじや

[現在地名]織田町織田

織田おた盆地のほぼ中央に鎮座し、劔大明神と称された。「延喜式」神名帳に載る敦賀つるが郡の劔神社に比定される。越前国二の宮といわれ、祭神素戔嗚すさのお尊、配祀気比けひ大神。旧国幣小社。「続日本紀」宝亀二年(七七一)一〇月一六日条に越前国従四位下勲六等劔神に食封二〇戸、田二町を与えるとみえる。「延喜式」では敦賀郡に属し、また気比大神を配祠していることから、敦賀郡気比神宮(現福井県敦賀市)との関係が深いと考えられる。社記には誉田別ほんだわけ(応神天皇)が気比神宮に参拝した時、武内宿禰を織田へ遣わして亡兄の忍熊王を合祠させたとある。この忍熊王には、近江瀬田川の合戦に敗れて敦賀から舟で北国へ渡る途中、越前岬(現福井県越前町)付近で嵐にあいうみ(現同町)にこぎついたところ人々に賊徒の征伐を訴えられ、王は素戔嗚尊の夢告と霊剣を賜って賊徒を平定したという伝承がある。社蔵の梵鐘(国宝)に「劔御子寺鐘 神護景雲四年九月十一日」の銘があり、奈良時代すでに当社の神宮寺があった。


劔神社
つるぎじんじや

[現在地名]東祖谷山村菅生

東祖谷山村の東端美馬みま木屋平こやだいら村との境のこしに鎮座し、木屋平村の剣神社(剣山本宮)にほど近い。旧郷社。祭神は安徳天皇・大山祇命・素戔嗚命。社伝によれば、仁和年間(八八五―八八九)祖谷山開拓のために大山祇命を祀り、祖谷山の総鎮守としたという。寿永四年(一一八五)源平の戦に敗れた平家の一族が、安徳天皇を奉じて当地に逃れ、天皇は深そぎの御毛と紅剣を大山祇神社に祀り、以来山を剣山とよび、当社を劔神社と称するようになったと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「劔神社」の意味・わかりやすい解説

劔神社
つるぎじんじゃ

福井県丹生(にゅう)郡越前(えちぜん)町織田(おた)に鎮座。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、気比大神(けひのおおかみ)、忍熊王(おしくまのみこと)。社伝では、座(くら)ヶ嶽(たけ)山上に伊部臣(いべのおみ)が鎮斎した剣で、忍熊王が当地の賊を平定してのち、この剣を素戔嗚尊の御霊代(みたましろ)として現在地に移し祀(まつ)り、のち王とその父気比大神をもあわせ祀ったという。770年(宝亀1)光仁(こうにん)天皇は神鐘と神馬を奉納、この神鐘が現存する(国宝)。延喜(えんぎ)式内社で気比神宮に次いで越前(えちぜん)国二宮(にのみや)。朝廷武家の信仰も厚く、ことに織田信長は当社の保護に力を注いだ。旧国幣小社。例祭日10月9、10日。社宝には前述の梵鐘(ぼんしょう)のほか、絹本着色釈迦八相涅槃(しゃかはっそうねはん)図(国指定重要文化財)などがある。

[平泉隆房]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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