美田村顕教(読み)ミタムラ アキノリ

20世紀日本人名事典 「美田村顕教」の解説

美田村 顕教
ミタムラ アキノリ

明治〜昭和期の薙刀術師範 大日本武徳会薙刀範士



生年
嘉永2年12月4日(1850年)

没年
昭和6(1931)年1月10日

出生地
丹波国桑田郡亀岡(京都府亀岡市)

別名
通称=岡之助,号=八重垣

経歴
丹波亀山藩士の家に生まれ、安政6年家督を継いで300石を禄す。早くから武芸を好み、10歳の頃より藩の師範役下河原一弘から天道流兵法の手ほどきを受ける。幕末期にはたびたび藩命に従って京都の動乱鎮圧に出動。維新後は様々な事業に手を出すもことごとく失敗、武芸教育を志して明治18年郷里亀岡に武芸教場生徳社を開いた。24年下河原一霍から天道流兵法の免許皆伝を授かる。やがてその武技が評判となり山階宮家で薙刀の教授をしたほか京都市内での出張教授を行った。28年には大日本武徳会の設立に参画し、大正3年同会の薙刀術教授を委嘱された。また同志社高等女学校や滋賀県立女子師範などでも薙刀術を教え、女子薙刀術の興隆普及に寄与した。13年大日本武徳会より薙刀術範士の称号を授けられた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「美田村顕教」の解説

美田村顕教

没年:昭和6.1.10(1931)
生年:嘉永2.12.4(1850.1.16)
明治大正期の薙刀術師範。通称岡之助,号は八重垣。父は丹波国亀山藩(亀岡市)の藩士美田村隼人正農。10歳から藩の師範役下河原一弘につき天道流兵法を学び,明治24(1891)年下河原一霍から皆伝を受けた。以降各所に出張教授し,28年の大日本武徳会設立後はその発展にも尽力し,大正3(1914)年同会より薙刀術教授の委嘱を受け,のちに薙刀術範士の称号を授与された。同志社高女や大津高女など数多くの高等女学校で薙刀を教え,近代の女子薙刀の興隆に尽くし,古伝薙刀を現代に残した功労者。<参考文献>美田村邦彦『大日本薙刀道教範』

(松井健二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「美田村顕教」の意味・わかりやすい解説

美田村顕教
みたむらあきのり
(1849―1931)

近代なぎなた成立期の功労者。養女千代(ちよ)らの協力を得て、天道(てんどう)流薙刀術の団体教授法を創案し、その普及に尽力した。顕教は丹波(たんば)国亀山(かめやま)藩(京都府亀岡市)の藩士の家に生まれ、10歳のとき天道流下河原唯六(しもがわらただろく)の門に入り、1891年(明治24)天道流兵法第14代を継承した。1906年(明治39)大日本武徳会薙刀術講習科の主任教師となり、24年(大正13)には薙刀術範士の称号を授与された。

[渡邉一郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「美田村顕教」の解説

美田村顕教 みたむら-あきのり

1850*-1931 明治-大正時代の武道家。
嘉永(かえい)2年12月4日生まれ。もと丹波亀山藩(京都府)藩士。同藩の下河原一弘に天道流兵法をまなぶ。大正3年大日本武徳会より薙刀(なぎなた)術の教授を委嘱され,13年範士。同志社高女,滋賀女子師範などでもおしえ,養女千代とともに近代の女子薙刀術をひろめた。昭和6年1月10日死去。83歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「美田村顕教」の解説

美田村 顕教 (みたむら あきのり)

生年月日:1850年12月4日
明治時代-昭和時代の薙刀術家。師範;薙刀術範士
1931年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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