美郡(読み)みのうぐん

日本歴史地名大系 「美郡」の解説


みのうぐん

面積:五六・四五平方キロ
吉川よかわ

県の中央部やや南東寄りに位置し、東から北は三田市、西は加東かとう東条とうじよう町・三木市、南は神戸市北区に接する。近世までの当郡は播磨国の東端に位置し、三木郡などとも記された。郡域は現在の三木市と北区の一部を含んだ。東から北は摂津国有馬ありま郡、北西は加東郡、西は印南いなみ郡、南は加古郡・明石郡・摂津国八部やたべ郡と接していた。郡名の読みは「和名抄」東急本に「美奈木」とあり、「延喜式」神名帳にみえる傍訓もミナキとなっており、「みなぎ」と発音した。ただし明治一八年(一八八五)刊の「地名索引」にはミノと訓が付されており、現在は「みのう」とよばれる。「播磨国風土記」によると、郡名は水の流れがはなはだ美しいことによるという。郡の北境付近の山地の麓を北東から南西流する美嚢みの川が郡の東部で小川おがわ川を、また中央部で志染しじみ川を集めて、郡の西端で加古川本流に合流する。これらの河川の沿岸一帯には狭小な盆地がみられるが、郡域の大部分、とくに東半部はほとんどが山地である。

〔古代〕

藤原宮跡出土木簡に「美奈伎郡志自弥里灰一斛」とみえる。この志自弥しじみ里の地は古く、縮見しじみ屯倉が置かれた所である。「日本書紀」顕宗天皇即位前紀によると、安康天皇亡きあとの皇位継承紛争のなか、雄略天皇のために殺された市辺押磐皇子の子億計王・弘計王の二人が難を避け縮見屯倉に逃れた。二人は屯倉の首忍海部造細目の宅に仕えていたが、のちに見いだされて顕宗・仁賢両天皇となったという。同様の説話は「古事記」「播磨国風土記」にもみえる。さらに「日本書紀」顕宗天皇元年正月一日条の注には弘計(のちの顕宗)の宮が小郊おの池野いけのに、仁賢天皇元年正月五日条の注には億計(のちの仁賢)の宮が川村かわむら縮見高野しじみのたかのにあったと伝え、「播磨国風土記」では二王の宮として高野・少野おの・川村・池野を記している。「播磨国風土記」には志深しじみ里・吉川里・枚野ひらの里・高野里など里名の説話が記載されており、「和名抄」東急本は当郡に志深・高野・平野ひらの・吉川・夷俘えみしの五郷を記すが、高山寺本には夷俘郷の記載がない。しかし「三代実録」貞観八年(八六六)四月一一日条によると、播磨国賀古かこ・美嚢二郡の夷俘長宇賀古秋野ら五人が逃亡して近江国に現れたとされ、夷俘郷の存在を推定させる。なお縮見屯倉は「日本書紀」清寧天皇二年一月条に「赤石郡の縮見屯倉」とみえ,当郡は赤石あかし郡に含まれていた可能性がある。

また当郡にかかわる木簡は前掲のものを除くと、幡麻国耳企みなき郡と読めるもの一点(奈良県大和郡山市稗田遺跡出土)、美嚢ないし播磨国美嚢郡と釈読できるものが三点(平城宮跡出土二点・長岡京跡出土一点)のほか、平城京跡出土のいわゆる長屋王家木簡に「(表)北宮交易美嚢郡吉川里」「(裏)槲一俵」と読めるものがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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