デジタル大辞泉
「別所長治」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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別所長治 (べっしょながはる)
生没年:?-1580(天正8)
戦国末期の武将。父は長勝。別所氏は赤松氏の一族で長治の曾祖父則治のころより,三木城を本拠に東播磨に勢をはった。1568年(永禄11)9月の足利義昭と織田信長入京のときには参戦し,義昭より御感を被ったという。78年(天正6)信長の中国進出には,毛利と結んで三木城に立てこもり,2年余にわたり信長方の将羽柴秀吉に抗したが,80年城中食糧尽き,家臣の助命を乞い自害した。
執筆者:高木 傭太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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別所長治 べっしょ-ながはる
?-1580 戦国-織豊時代の武将。
祖父の代から東播磨(はりま)(兵庫県)を支配。美嚢(みなき)郡三木城主。天正(てんしょう)6年織田信長の中国進出に毛利氏とむすんで抵抗。羽柴(豊臣)秀吉の攻囲に2年余もちこたえ,食糧がつきて家臣の助命を条件に降伏,天正8年1月17日自害した。通称は小三郎。
【格言など】今はただ恨みもあらず諸人(もろびと)のいのちにかはるわが身と思へば(辞世)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の別所長治の言及
【播磨国】より
…つぎに赤松義村と被官浦上村宗の争いがおこり,政情混乱のまま戦国時代に突入する。1575年(天正3)織田信長にあうため上洛した播磨の領主たちは,赤松広秀,小寺政職(まさのり),[別所長治],[浦上宗景]らであった。国内の安定は80年の羽柴(豊臣)秀吉の播磨検地からである。…
【三木[市]】より
…【小森 星児】
[歴史]
美囊郡は古く〈みなぎのこおり〉と訓じ,中世には三木と書いて〈みなぎ〉と読ませたが,近世に〈みき〉と転じた。戦国時代末期には[別所長治]が三木城によって東播8郡に覇を唱えた。織田信長に反抗した長治は1578年羽柴(豊臣)秀吉の包囲攻撃に対し20ヵ月間籠城したが糧食が尽きて長治は自刃,士卒の助命を乞うて開城した。…
※「別所長治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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